『親鸞』上下巻 [読書日記]
親鸞(しんらん)(上) 【五木寛之ノベリスク】 (講談社文庫)
- 作者: 五木寛之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/28
- メディア: Kindle版
内容紹介【購入(キンドル)】
【上巻】馬糞の辻で行われる競べ牛を見に行った幼き日の親鸞。怪牛に突き殺されそうになった彼は、浄寛と名乗る河原の聖に助けられる。それ以後、彼はツブテの弥七や法螺房弁才などの河原者たちの暮らしに惹かれていく。「わたしには『放埒の血』が流れているのか?」その畏れを秘めながら、少年は比叡山へ向かう。
【下巻】親鸞は比叡山での命がけの修行にも悟りを得られず、六角堂へ百日参籠を決意する。そこで待っていたのは美しい謎の女人、紫野との出会いだった。彼が全てを捨て山をおりる決意をした頃、都には陰謀と弾圧の嵐が吹き荒れていた。そして親鸞の命を狙う黒面法師。法然とともに流罪となった彼は越後へ旅立つ。
ロックダウンの巣ごもり生活に突入してから、就寝前のひと時に、睡眠誘発剤として読もうと考えて選んだのが、五木寛之の『親鸞』である。上巻は週明けから平日コツコツ読み進めたものだが、21日(金)に僕の仕事の関係で大きなヤマ場となる会議が終わったので、その後の解放感から一気に読み進め、上巻は22日(土)朝、そして間断入れずに読みはじめた下巻も、23日(日)朝には読み終わった。
90歳まで生きた人なので、その生涯を上下巻とはいえ1編の長編小説に納めるのは難しい。この上下巻で描かれるのは京都時代の話で、9歳で得度し、比叡山で修学し、29歳で六角堂百日参籠して聖徳太子と夢の中で会い、その直後に吉水の法然の下に百日通って聴聞し、入門が許されて、さらに承元の法難を経て越後に配流されるまでが描かれている。
学校の日本史で僕らが習ったことといったら、法然は浄土宗を開き、親鸞は浄土真宗を開いた、親鸞は法然の弟子だった―――それくらいのことに過ぎない。でも、弟子だった親鸞がなんで別の宗派を開いたのかという経緯については、日本史で習うことはほとんどないだろう。そこは、疑問を自分で掘り下げないとわからないところだ。僕も去年は蓮如の御文(御文章)を読んでいて、なんとなくではあるが「こういうことではないか」と考えていたことはあった。今回、五木寛之の歴史小説として読んでみて、想像していたことが多少の立体感も加わって理解できた気がする。
節目節目の出来事は史実とそう変わりはないが、架空の登場人物もいるし、実在の人物であってもその人がどのような役割を果たしたのかは諸説ある。毎回行っていることだが、歴史小説は作家の想像力の見せどころであり、いろいろな仮説を用いて読ませるストーリーとして構成している。これを読んだからといって親鸞の生涯を正しく理解したことにはならないだろうが、取り入れられたエピソードは、あったかもしれないなと思わせるものだった。
個人的には、「悪人でも称名念仏すれば浄土にいける」という教えに対して挑戦的なまでに悪事を働き親鸞の前に立ちはだかる黒面法師が、どう変わっていくのかには興味がある。今回は京都編だけだったが、この後「激動編」「完結編」と続いていくらしい。これからも折を見てはイッキ読みを繰り返していくと思う。
なお、親鸞の生きた時代というのは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる時代とほとんど被っている。たぶんサイドストーリーとしてもドラマでは取り上げられないだろうが、先にご紹介した伊東潤『修羅の都』でも武家の中では相当血なまぐさいことが行われていたことが想像されるし、またその武士間対立を煽っていた京の朝廷の暗躍ぶりも描かれていた。『親鸞』でも登場する後白河法皇や慈円、実際には登場しないがたびたび言及がある平清盛、後鳥羽上皇や九条兼実は、『修羅の都』でも重要な役回りを演じている。
そういう意味では、大河ドラマファンの方には、この際だからこういう歴史小説もお勧めする。特に、平家vs源氏、源氏vs源氏、鎌倉vs朝廷といった対立構図の中で、庶民はどのように時代に翻弄されていたのか、そして何にすがって生きていたのか、五木寛之『親鸞』シリーズを読んで少し思いを巡らしてみるのもいかがかと思う。
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