『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』 [読書日記]
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「複製技術時代の芸術作品」はベンヤミンの著作のなかでもっともよく知られ、ポストモダン論の嚆矢とも言われてきた。礼拝される対象から展示されるものとなり、複製技術によって大衆にさらされるようになった芸術。アウラなき世界で芸術は可能なのか。近代に訪れた決定的な知覚の変容から歴史認識の方法を探る挑戦的読解。
そもそも、僕らが働く業界ではアートやメディアに関する知見が求められるのはごく一部の限られた領域に過ぎないのだけれど、SDGsの時代になってきて、アートやメディア側から「持続可能な開発(サステナビリティ)」への問いかけが増えてきているのに、元々「持続可能な開発」に取り組んできた筈の自分の業界に、どのようにしたらアーティストと協働できるのか、心の準備がなかなかできていない気がする。この点は僕は自分のブログでもごくたまに言及してきた論点なのだが、かく言う僕自身が芸術論やメディア論に造詣があるかというと、さほどでもない。
これじゃいかんな~と思いつつ、時々このような文献に手を伸ばし、そして見事に玉砕するというのを繰り返している気がする。ヴァルター・ベンヤミンの著作を直接読めるのと、その前にその著作の倍以上もある評論を一緒に読めるというお得感で、ついつい読み始めたのだが、評論・解説の方もかなり難しかった。芸術史を勉強しているような人々には当たり前のことも、僕のような門外漢には初出であり、一瞬たりとも気を抜かずに1節当たり約4~6ページの分量を精読するのは容易ではない。
そもそも「アウラ」という言葉自体が、アーティストの間では当たり前の言葉になっているのかと思われる。ちょっと調べたら「オーラ」として日本では知られている言葉らしく、それを伝統的な芸術作品の特質をしるしづけるためにベンヤミンが初めて用いた概念が「アウラ」らしい。
それで、本論考の中でベンヤミンが論じているのは、いま・ここに原理的に拘束されることのない、写真や映画といった複製技術を基盤にする芸術形式は、アウラをもたないということらしい。
で、今でもベンヤミンの本論考が注目されるのは、写真や映画ではないけれども、複製可能なデジタルデータがオープンにやり取りされることや、YouTubeのような動画で広く視聴されている今日にも、有効な論点が含まれているからということなのかなというのはなんとなくわかった。
芸術性のある作品なのかどうかはともかく、僕らは先行して様々な作品を作った世界中のクリエイターが共有可としてくれているデータをダウンロードして、ローカルで複製したり、自分たちのニーズに合わせてリミックスしたりしている。当然ダウンロードやカスタマイズに当たってのルールには基づいてそれを行なっているが、常に気になるのは、原作者の厚意をどのようにリスペクトするかという問題だ。
なので、今日性については漠然とだがわかる気がするものの、それじゃあ世界中で共有されているデジタルデータが芸術作品なわけでもないだろうし、ベンヤミンの論考が発表された当時の写真や映画がすべからく芸術作品だったというわけでもないだろう。読みながら、芸術といえる写真や映画とそうでない写真や映画の線引きってどこでしたらいいのだろうかと、頭がグチャグチャになった。
こういう時は、また時間を置いて読み直してみるに限る。もう少し、集中して読書に専念できるような心と体の状態にある時に、再読に挑戦してみたい。
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