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『開発なき成長の限界』 [インド]

開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断

開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断

  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
ノーベル経済学賞受賞者センが共著者ドレーズとともに、急成長を遂げるインドが抱える経済・政治・社会の歪みを鋭く分析。貧困・格差の深刻化と民主主義の機能不全に陥る日本社会への警鐘ともなる、必読の書。

先にフィル・ナイト『SHOE DOG』の方を紹介してしまったので順番が前後したが、実は読了はこの本の方が先で、しかも、本書読了により、今年の1つの目安だった「年間200冊」を達成することができた[黒ハート]

この、本文だけで420頁もあり、価格が4600円(税別)もする大著を、今読もうと思った理由は、今月初旬に再読した浅沼信爾・小浜裕久『ODAの終焉』(勁草書房)の中で、本書におけるアマルティア・センとジャン・ドレーズによる「貧困削減路線の継続」提唱に対して、批判的な見解が示されているのを目にしたからである。セン=ドレーズの主張は、基本的な公共サービスとして考えられる教育(特に初等教育)、保健、食料援助(実際はソーシャルセーフティネットのことだが)、環境保護分野に対する政府の関与と財政資金の割り当てを飛躍的に高めよというものだが、浅沼・小浜は、「そのために必要とされる財政資金をどうやって調達するか、あるいはどのような財政資金の配分、すなわち貧困削減プログラムに重点的に財政資金を割り当てることが、経済全体の成長政策とどのうようなトレードオフを引き起こすのかについては一言半句も触れられていない。国の開発戦略としてはまったく不完全だ」とこき下ろしている。

本当にそうなのかというのが気になったので、読んでみたわけだが、セン=ドレーズが本書の中で経済成長路線を否定しているわけではなく、むしろ経済成長自体は貧困削減に必要な要素だと認めてもいる。肝心なのは成長をどう貧困削減につなげるのかという公共政策の部分だと思えるが、その欠如をセン=ドレーズは確かに批判しているようである。そこをあげつらって「戦略として不完全」と言うのもどうかと思う。(浅沼・小浜前掲書は、これに言及した見開き2頁の間に、誤植が5カ所もあり、しかも「バンガロールがグジャラート州にある」等という事実誤認もやらかしているので、舌鋒鋭い論調もちょっと白けてしまう。)

確かに、セン=ドレーズの著書を読むと、同時期にバグワティ=パナガリヤから何かしらの批判を受けていて本書でその反論を試みたと思える記述もあるので、そういう論争はあったには違いない。バグワティ=パナガリヤの著書は翻訳されていないが、浅沼・小浜はそちら寄りなのは明らかだから、読んでおくならセン=ドレーズの共著の方が先だろう。ということで、今回はこんな大著に挑戦することにした。

明石書店が本書に4600円(税別)というような強気な価格設定したのは、勿論それくらいの分厚さで翻訳にかかったコストもそれなりに高いということもあるのだろうが、インドの開発課題をわかりやすい枠組みで網羅的に示している内容なのだから当然だという気がする。主要メディアを通じて日本の僕たちが得られるインドからの情報は、輝かしい経済成長の話がどうしても中心になるが、それはメディアがそういうところしか報じていないからで、特にインドの主要メディア自体が自国のダークサイドにあまり目を向けていないからである。

見て見ぬふりしているのか、本当に見えていないのかどうちらかはわからない。ひょっとしたら本当に見えていないのではないかと思うような言動に出会ったことも僕は実際にあるし。主要メディアの顧客はそういうメディアにアクセスできる人たちだろうから、顧客が見たいと思うニュースを中心的に報じるだろう。

なので、インドについて包括的に理解したければ、こういう本をちゃんと読まないといけないと思う。たとえ高価であっても、それなりの価値がある本だと思う。せめて、インドと関わる組織の方は、経費で落としてでも本書は自部署に置いておかれるといいような内容の文献だと思う。翻訳も、アジア経済研究所の方がやっておられるので、わかりやすい文章になっている。

◆◆◆◆

 開発について考える場合、教育が担っている基礎的役割と人間の潜在能力を拡大するためのその他の手段との間には密接なつながりがあり、この2つの点は本書の中心的なテーマでもある。もちろんだからといって、経済にとって好ましい制度が構築される必要があるという点を否定しているわけではない。しかし、「制度は成長を生み出すのか」と題する、懐疑的な見方を示した論文のなかで、グレーザー、ラ・ポルタ、ロペス・デ・シラネス、シュライファーは、「必要な」制度があらかじめ列挙されている一覧表を作るよりも、人的資本の発展を目指すほうが(それが役に立つという根拠がどのようなものであれ)より価値があるのではないかと論じている。(p.74)

様々な種類の制度がインドにとって重要であるという点については、今後さらに詳しく述べていくことにする。その際によく検討しなければならないポイントとして、(1)(これまでに触れた関連文献と同様に)一括りで見た成長と開発にとって重要な制度、(2)経済成長の面での成果が開発の幅広い側面にまで及び、人々の暮らしをより豊かなものにするような具体的な制度の必要性、という2つの点が挙げられる。つまり、急速な経済成長を実現するような制度が必要であるといっても、それには、人々の生活水準を向上させるような具体的な手段と組織が伴っていなければならないのである。(p.75)

 ここでしっかりと認識しておかなければならないのは、(中略)経済成長は人々の暮らしをよくするための大切な手段である一方、経済成長がどれだけの広がりを持ち、どれほどの効果を及ぼすのかは、経済成長の成果によって何がなされるかに大きく左右されるという点である。つまり、経済成長と生活水準の改善がどのように関係しているかは、経済的・社会的不平等全般をはじめとする数多くの要因に加えて、経済成長が生み出した歳入で政府が何をするかという(同じくらい重要な)点によっても決まるのである。(中略)一国の経済が成長するかどうかは、教育、保健医療、その他の手段によって人間の潜在能力を高められるかどうかにかかっており、この点で国家が大いに積極的な役割を果しうるということも認識しておかなければならない。(p.78)

 自然環境が破壊されるのは、「環境」と「開発」が相反する関係にあることの表れであると考えがちだが、このように解釈してしまうのはまったくの誤りである。(中略)開発というものが人間の自由と生活の質を高めることにあるとするならば、維持・促進を図りたいという目標のなかに環境の質が含まれるべきだからである。(後略)
 環境に配慮したからといって、開発の促進や貧困と剥奪の撲滅へ向けての取り組みが妨げられるとは限らないという点を理解しておくことは大切である。人間の自由を本質的な意味で高めるというより広い視野を持って開発というものを眺めてみれば、貧困との闘いと環境への配慮はまさしく密接につながっている。(中略)結局のところ、開発というのは、価値を置くだけの理由がある生活を送れるように人間の自由と潜在能力を高めることなのである。(p.84)

教員給与を高くすることが、授業や指導の質を引き上げるのにとりわけ役立つという証拠はほとんどないようである。給与が高ければ、より多くの応募者のなかなから教員を選んだり、教員の適性を底辺から引き上げたりすることができるようになる。その一方で、給与を引き上げると、教員の仕事というものが、必要な資格を持っている誰もが(教えることにまったく興味のない人も含めて)引き寄せられるような魅力のある仕事になってしまう。しかし、おそらくもっと深刻なのは、教員の給与が高くなると、教員と生徒の父母との間の社会的な隔たりも大きくなってしまうという点である。現在、インドの多くの州で、初等学校の教員の給与は、法定の最低賃金で毎日働くことができた場合に農業労働者が得られる賃金の10倍以上の水準に達している。大きな所得格差も手伝って、社会的な隔たりが年を経るごとに広がっているため、学校教育がうまく機能していくうえで重要であった、教員と農村世帯の父母が互いに助け合うという関係が育まれなくなるのである。(pp.203-205)

 公共サービスが十分に機能することで、人々の暮らしは大きく改善される。本章に先立つ2つの章で教育と保健に焦点を当てたのは、開発というものの核心である人間の潜在能力の形成と真の自由の拡大に、教育と保健が大きく貢献するからである。また、教育と保健というのは、市場によって生み出されるインセンティブの限界や公共活動の必要性がとりわけ大きい、一人一人の生活と社会関係にかかわる分野でもある。(中略)公共サービスの必要性は、教育と保健の他にも、生活条件を構成する多くの側面についても当てはまる。例えば、環境保全、雇用の拡大、食料安全保障、そして、市場メカニズムが規制されない場合に効率性や公正性が大きく制約される、その他多くの分野が挙げられる。(p.270)

経済成長によって貧困世帯の賃金や所得が上がっていくのを我慢強く待つのではなく、貧困世帯への直接所得補助を拡充するための可能な方策を探ることがよりおっそう重要になる。実際、現在のインドでは行政面や財政面での資源に限りがあるにもかかわらず、多種多様な所得補助、経済的再分配、社会保障が人々の生活水準にすぐさま大きな効果をもたらすという証拠が、以前にも増して見られるようになってきている。直接所得補助というのは、これまでの章で議論した保健や教育に関する政策と同じくらい重要なものである。というのも、これらの政策は互いを大きく支え合っており、人々の基本的な潜在能力を育んでいく助けになるだけでなく、深刻な人的被害を減らし、さらには経済成長にまでつながっていくことも実際には多いからである。(pp.281-282)

 インド社会に見られるこうした極端なまでの格差は、異なる種類の不平等(この場合は、カースト間とジェンダー間の不平等)が互いに強め合うことによって生まれている。もしこれに階級という側面がさらに付け加えられると、格差をめぐる状況はよりいっそう悪化するように見えるだろう。つまり、カースト間とジェンダー間の不平等が互いに強め合う傾向があるのとまったく同じような事態が、カースト間と階級間の不平等などについても起こりうるのである。例えば、カーストによる分断があることで、経済的に恵まれない人たちがよりよい待遇を求めて団結したり交渉したりすることがはるかに難しくなってしまう。B.R.アンベードカルが鋭くしているように、「(前略)カースト制度というのは、単なる労働の分業ではない。労働者の分断なのである」。(p.315)

インドではここ数十年の間に経済格差が拡大しているという証拠も数多くそろっている。例えば、1人あたり消費支出のデータによると、都市部で不平等が拡大しているだけでなく、都市部と農村部の間でも格差が広がっている。したがって、インドで近年見られる急速な経済成長の恩恵に浴しているのは、主に都市部に暮らす比較的豊かな階層なのである。同様に、1人あたり所得のデータを見ても、所得全体に占める最上位層の所得の割合が上昇している。さらに、不完全なものではあるが、資産に関するデータからも経済自由化以降に格差が拡大していることが示されている。(pp.318-319)

 経済の急成長を追い求めるだけでなく、まさにその一部分として、人間の福祉と潜在能力を急速に向上させてきたアジア型経済発展から得られる教訓をインドはことごとく活かしてこなかった。公共サービスがより説明責任を果たし、効率的に運営されるようにする一方で、社会、教育、保健にかかわるサービスに見られる深刻な欠陥を解消したり、社会的インフラと物的インフラに対して高まりを見せる要求を満たしたりするために、(経済成長によって増大した)政府の歳入を活用するというのが「東アジア型戦略」の決定的に重要なポイントである。そして、インドよりもはるかに多くの予算を一般市民の教育、保健医療、栄養摂取へ振り向けることは、持続的な高成長と両立可能であるとともに、持続的な高成長を大きく後押しするという点が、中国の経験によっても示されている。(中略)そして、それだけでなく、なぜ急速かつ持続的な経済成長が必要なのかを経済成長の重要性を唱える人たちが十分に理解していないことにも驚かされる。私たちは、保健や教育や人間の潜在能力の形成のその他の側面がほとんど考慮されないまま、「経済成長が優先課題である」という空疎な言葉がわめき散らされているような厳しい状況のなかにいる。これは、長期的な経済成長と参加型の開発が実際にはどのようにして達成され、維持されているのかという点が、あきれてしまうほど曖昧にしか理解されていないことの表れなのである。(p.405)

恵まれない人たちが排除されることによって、こうした人たちの利害が公共政策に反映されないという状況が、様々な領域で起こるようになってしまう。学校教育、保健医療、社会保障、その他の関連する課題がインドの計画立案で無視されているのは、このような全般的な傾向の1つの側面なのである。さらに、特権階級の利害に引きずられた結果生まれる公共政策の歪みというのは、その他にも様々な形で姿を現している。例えば、農業と農村開発をないがしろにすること、個人的利益のために天然資源などを開発して自然を破壊すること、特権的な集団に政府の補助金を(公然とまたは暗に)大盤振る舞いすることなどが挙げられる。(p.415)

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そんなに経済成長を軽視している論調ではないとやっぱり思いますけどね。
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