『「山奥ニート」やってます。』 [読書日記]
内容紹介
ひきこもりとなって大学を中退し、ネットを通じて知り合ったニート仲間と2014年から和歌山の山奥に移住。以来、駅から車で2時間の限界集落に暮らしている。月の生活費は1万8000円。収入源は紀州梅の収穫や草刈りのお駄賃など。インターネットさえあれば、買い物も娯楽も問題なし。リモートの可能性をフル活用し、「なるべく働かず、面倒くさい人間関係から離れて生きていく」を実現したニートが綴る5年間の記録。
本当は、本書の前に読了している別の本があるのだが、どうもその本のことをブログに記す作業がボトルネックになりそうな気がするので、その後に読了した本を先に紹介することにする。
数週前の週末、日本テレビの『世界一受けたい授業』で、和歌山県田辺市の山奥にある廃校校舎を改装したニートばかりのシェアハウスが取り上げられていた。そんなシェアハウスがあるんだと我が家でもちょっとした話題になったが、どうやらここを運営していることになっているNPOの代表でもある住人ニートさんが、本を出しているらしいと知り、近所のコミセン図書室にそれまで借りてた本を返却する際に、たまたま新刊書コーナーで見かけた本書を、借りてみることにした。
時系列からすると、先に本が出て、それが注目されてテレビで取り上げられたという順序だったのかもしれない。でも、番組を見てある程度予備知識もできていたので、読む方はスラスラと進んだ。長い時間をかけて読むようなたいそうな本ではないので、息抜きのつもりでサッと読んでしまった。
このNPO法人も、設立者はそれなりの高い理想を掲げて設立に踏み切ったのだろう。それが、2人のニートの入居が決まり、実際にその民家での暮らしを始めた直後に設立者の方はお亡くなりになってしまった。その後、実質的なNPOの運営が、入居したニート2人に委ねられることになる。入居希望するニートの数は増えていくが、民家への入居継続が難しくなったことから、さらに奥地にある小学校の廃校に住まいを移ることになったという。
おそらく最初の理想は、ニート対策と村の過疎対策をつなぎ合わせて村落社会の維持を図ろうとする高邁なものだったに違いない。しかし、それは昔からその地域に住む地元民の視点であって、暮らしの当事者であるニートの求めるものではなかったのだろう。ニートはニートなりのゆるさをもってシェアハウスの存続に取り組んでいる。少なくとも、地域に住むお年寄りとの交流を通じて村をおこそうという話よりも、入居者の視点に立つと、村のお年寄りは皆お元気で、でも農作業や住居の営繕等を手伝えばこづかいをもらえるから、気が向けば手伝おう、ぐらいの軽いノリで、お年寄りのところに出向くようだ。
意識高い系の地域おこしの話は、読んでいると完全無欠過ぎて結構疲れる。そして、自分自身の情けなさに劣等感でさいなまれる。しかし、こういう脱力系の話は、地域おこしなどという非の打ちどころのない理想は掲げず、かったるければ休むし、適当にやってるゆるさがあって、心地良く感じる。純粋に、「サバイブしてくれよ」と応援したい気持ちになる。
こういう場所があることは、きっと大事なことなんだろう。
ただ、この本を大学生の我が子に読ませてもいいのかどうかは悩ましい。こういう生き方もありなんだと思う一方、うちの子どもがそうしたいと言い出したらどうしよう…。
最後に、この著者、ゆるい書きぶりだけれども、所々で結構本質を突いているいいことを書いている。1つだけ紹介しておく
田舎に住んでいる高齢者は認知症になりにくいという。
自分が日々生活するために手と頭を動かさなきゃいけないからだ。
だけど、街にいる子どもの家に引っ越したとたん、認知症になる。
街にいると自分の役割がなくて、人の役に立つどころか迷惑をかけているのではないかと感じてしまうそうだ。
このあたりの爺さん婆さんはみんな元気で格好いい。簡単に人に頼ったりしない。自分ひとりで大概のことをやってしまう。
僕もあんな風になれたらいいな、と思う。
これから先の50年、何があるかなんて誰にもわからない。
年金制度が破綻するかもしれないし、円が暴落するかもしれない。
一番いい備えは、怪我や病気をしたときのために貯金することじゃなく、自分ができることを増やしていくことなんじゃないだろうか。
ここに住んでいると、どうもそう思えてならない。(p. 91)
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