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俺の中学時代③-日曜早朝の徘徊 [備忘録]

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巣ごもり生活が始まる以前から、僕の毎日の朝の日課は、午前4時起床の後、すぐに体温と血圧を計測し、ウォーキングに出ることである。自宅周辺の1周1.5kmコースを周回し、多い時は6周、少なくとも4周、1時間をノルマと定めている。若い頃のようにジョギングできたらいいのだけれど、今はウォーキングに留めている。ジョギング1時間はきつく、そして毎日は続けられないから。

その間、スマホアプリでラジオを聴いている。平日午前4時台はTBSラジオの「Fine!」、5時台はNHKラジオの「マイあさ」である。「Fine!」は4時30分頃から「ソング・オブ・メモリーズ」というコーナーがあって、昔よく聴いていた曲がリクエストでかかる。以前なら5時台もTBSの「生島ヒロシのおはよう定食」だったんだが、どうも生島さんのヌルさに嫌気がさし、むしろNHKで真面目にニュースを聴こうと思うようになった。

そして日曜早朝だけはもっと早起きしている。午前3時起きで、3時台のNHK「ラジオ深夜便」を聴きながら早朝の街へと歩き出したりする。3時台の「ラジオ深夜便」は昔の懐かしい曲をかけ続けてくれるし、4時台のTBS「Fine Music」もほぼすべてがナビゲーターないしプロデューサー選曲の音楽で、これが6時近くまで続く。知らない曲の方が多いが、音楽を聴きながらのウォーキングはあまり苦にはならない。

最近は日の出が4時30分頃にまで早まってきているので、日曜朝は3時台で歩き出しても、既にあたりは明るくなり始めている(写真)。人の往来はほとんどなく、世界がすべて自分の手の中にある感じ。そんな時に思い出すのが中学時代のことである。

岐阜の田舎で中学生をしていた僕の、土曜深夜の日課は、25時から始まるCBCラジオ(ニッポン放送系列)の「鶴光のオールナイトニッポン」だった。25時(午前1時)から29時(同5時)まで続く番組を、睡魔と闘いながらよく聴いた。鶴光を聴いたかどうかは、週明け月曜日のクラスの男子の話題だった。中1の夏頃には既にかなりヘビーなリスナーになっていた。そのうち他の曜日のオールナイトニッポンも時々聴くようになっていったが、「徹夜」というのを経験したのは、「鶴光のオールナイトニッポン」のお陰だ。

当時、土曜夜といったら、TBS系列の「8時だヨ!全員集合」というお化け番組があり、その後21時から「Gメン’75」というアクション番組が続いた。僕は、定番の「全員集合」の後「Gメン」を見るか、それともテレビ朝日系列の「土曜洋画劇場」を見始めた。「土曜洋画劇場」は22時以降も続き、僕は居間で見てるふりをしつつ、親の目を盗んでチャンネルを変え、日本テレビ系列の「ウィークエンダー」の「再現フィルム」をチラ見して、それから自室に上がった。軽く居眠りして、そして午前1時に備えた。

当然、睡眠時間が不十分な状態で午前1時を迎える。そこから5時までは長丁場だ。3時過ぎからはかなり集中力が落ちてくる。そのまま眠るのもありなのだが、なんかこの世界を独り占めしている感覚をもう少し味わいたいと思い、4時過ぎまで我慢すると家を抜け出し、当時の愛車セキネ自転車の「ガルーダDD5」にまたがり、町内を徘徊した。(なので、午前4時台のオールナイトニッポンのことはあまり覚えていない。)

岐阜の田舎町である。「町内」といっても広く、町の中心地にある中学校まで自転車で行くのに20分はかかる。20分もかけて町の中心地にまで行って、中学まで行って引き返して家に帰るというパターンだったが、その時に通るルートはだいたい決まっており、ある女子の家の前を通った。

中1だった当時、クラスメートにT・Yという、やたら僕に声をかけて来る子がいた。同じクラスにいた別の女子がSanchai君のことが好きなんだけどとか、それを僕が無視すると別の女子がSanchai君のことが好きらしいからグループで隣りの地方都市まで遊びに出かけないかとか、よくそんなことを言ってきた。今となっては経緯は覚えていないが、町の中学校のすぐ近くにあるT・Yの自宅に行って、部屋に上がらせてもらったこともある(他のクラスメートの男子もいたが)。少なくとも中学高校時代、女子の部屋に上がらせてもらったのはその時しかない。

中学時代を通じて、僕が好きだった女の子の話は、10年以上前にブログで書いた「30年前の「あの日」」の中で触れている。このことは間違いではない。実際憧れの女子だったのだが、クラスは一度も一緒になったことはなく、言葉を交わしたことも一度しかない。「高嶺の花」過ぎて実はリアリティがあまりなかった。そんな子を何故好きになったのかは中1時代の秋の運動会で同じチームになってその存在を知ったからだが、僕のいた剣道部の武道館と彼女のテニスコートが割と近い距離にあったので、気になり始めていた。

そのことを誰かにしゃべったのは、T・Yが最初だった。T・Yは、前述の通り、クラスの中で僕のことが好きな女子がいて、脈がありそうかどうかを僕本人に尋ねて来る役割を演じていた。最初の子について興味ないと断ったのがいつ頃だったのかは記憶が定かではないが、2人目の子を断ったのは秋か初冬だった気がする。運動会よりは確実に後のことだった。僕が2人続けて断ったことで、「それじゃ、Sanchai君って誰が好きやの?」と訊かれたことがある。そこでつい口を滑らせたのが、テニス部のIさんだったという次第。

その後T・Yとは関係が希薄になった。テニス部のIさんの名前を持ち出したはいいが、実はT・YとIさんは自宅が200メートルぐらいしか離れておらず、よく知ってる間柄だった。それで、「それならIさんに伝えてあげようか?」とかなんとか余計なお節介を口にされて、それでムッとして僕はT・Yと距離を置くようになった。記憶は正確ではないけれど、経緯はおおかたそんなところだっただろう。

だけど、今振り返ってみて思うのは、ひょっとしたら僕が好きだった相手は、実はT・Y本人だったんじゃないかということだ。僕がもうちょっと素直で、そしてちょっとばかりの遊び心(言葉は悪いが)があれば、T・Yの問いに対して「お前のことや」とかなんとか、答えようがあったかもしれない。T・Yは決して美人ではない、普通の女の子だった。そんな子がなんで僕にちょっかいを出してきていたのか、大人になり、駆け引きやズルさを覚えた今の僕なら想像もつく。売り言葉に買い言葉のような形で友好な関係が一発で終わってしまったが、その後、中2になっても中3になっても度々日曜早朝に自転車で徘徊していたルートを考えると、そんなしょうもない形で友好関係が終わってしまったことを僕自身が後悔していたのかもしれない。

徘徊を終えて5時少し過ぎに自宅に戻ると、祖母や父は既に起きていた。農家の朝は早い。たとえ日曜日であろうとそれは変わらない。そして平然と朝食を家族とともに済ますのだが、さすがに睡魔には耐えきれなくなる。日曜朝は睡眠でつぶれることが多かった。

10年前に書いた通り、中学卒業前に、憧れのIさんとはひと言だけだが会話を交わすことができたし、その後二度ほど姿を見かけたこともあった。でも、T・Yとは本当にそれっきり。中2、中3とクラスが違ったこともあり、その後も接点がまったくないまま、今日に至っている。元気にされているんでしょうかね。

誰もいない日曜早朝の街路を1人で歩いていて、しかも70年代後半の曲がラジオで流れたりすると、そしてそれがイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」だったりすると、もうたまらなく中学生時代のことを思い出してしまう。


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