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梅原猛『いま何が問われているのか(モダニズム信仰)』 [仕事の小ネタ]

我が家の次男が高校に進学した際、高校入試で最大のボトルネックは「国語」だった。本は読まないし新聞も読まない。テレビのニュースにも興味がないのだから、新聞なんて読まないのは当たり前といえば当たり前だ。オヤジの僕は中学生時代はペースが鈍ったとはいえ小学生時代から本は読んでいたし、新聞も、エントリーポイントが中日新聞のスポーツ欄で贔屓のドラゴンズの試合結果をチェックすることだったとはいえ、読んではいた。社会の酸いも甘いも経験して、年寄りの一歩手前にまで差し掛かっている僕が言っても説得力はないが、ボキャブラリーはそこそこある方だと思っている。そんな僕には、時々とんでもない言葉の言い間違いをおかす次男は、危なかしいこと極まりなかった。

なんとかすべり込みで高校には入ってくれたけれど、国語も含めて入学時の成績はなんと下から一桁台。そこで考えたのが、いちばん伸びしろがありそうな国語を、次男と2人で競うというやり方だった。同じ問題集を2冊買ってきて、1冊は息子、もう1冊は僕が使って、2人同時に解題に取り組み、答え合わせするというものだった。現代文でしばらくやってみたけれど、そのうち僕のスケジュールが息子と合わなくなり、さらには妻が彼を塾に通わせることを主張したため、問題集が完遂する前にお開きとなってしまった。

このままではもったいないと思った僕は、取りあえず自分の保有する問題集だけは最後まで解いてみようと現在も格闘中であるが、現代文というのは面白いもので、時々「おっ」と思わせるいい文章が取り上げられている。ということで、備忘録的に、この文章キープしておきたいと思ったものをブログで引用しておくことにする。初回は哲学者・梅原猛によるモダニズム信仰の考察。


◆◆◆◆

 モダニズムとは何か。それはデカルトやベーコンによって作られた原理であり、世界の中心に人間あるいは自我をおき、その人間あるいは自我に対立するものとして自然をとらえ、その自然の法則を客観的に認識することによって自然を支配し、人間生活を便利にし、豊かにしようとする思想である。このような思想により近代文明は発展し、人間はそれ以前の人間が思いも及ばなかったような便利で豊かな社会を作ったことは間違いない。

 しかし今やこのような文明の原理では人類はやっていけなくなった。科学技術の発展は、内に人間の欲望を無限に膨らませるとともに、外に自然の破壊を招いたのである。この近代文明の原理でこのまま進めば、内に人間は宗教、道徳によって養われた美しい人間性を失い、外に人間が生きるべき環境を失い、やがて人間は滅亡に至るであろう。

 ポストモダニズムの思想が求められるのはかかる状況においてであるが、ポストモダニズムの原理はモダニズムの原理の正反対であらねばならぬ。現代の生命科学は、人間はあらゆる生きとし生けるものと同じようにDNAからなる自然の中の一生命体に過ぎないことを明らかにした。それゆえ、人間は宇宙における自分の位置を謙虚に反省し、他の生命体との末永い共生を図らねばならぬ。そしてあらゆる生命体は絶えず「死・再生」の循環を続けているとすれば、共生と循環こそがポストモダニズムの原理にならねばならぬと私は考える。

 もっぱら西洋化、近代化を目指した日本が、圧倒的にモダニズム、近代思想の影響下にあったことはもちろんである。明治以後の日本の知識人のほとんどはヨーロッパで生まれた知、特に科学的、技術的な知を身につけることを自己の最大の責務とした。このような知の努力によって、日本は非西洋諸国の中にあってもっとも近代文明の移入に成功した国となり、その経済的発展は今や自己の教師である欧米諸国の脅威の的にすらなっているのである。(中略)

 モダニズムとポストモダニズムの政治理念の違いは、たとえば長良川河口堰の問題に表れる。ここで詳しく触れることはできないが、河口堰建設は、モダニズムからみれば今なおよいことであるが、ポストモダニズムからみれば生命の共生を不可能にし、自然の循環を止める天人とも許しがたい蛮行ということになる。それがたとえ百年に一度の洪水に備えるにせよ、そのような自然破壊ではなく、他の方法によって洪水を防ぐことを模索すべきなのである。現代の科学技術でそれができぬはずはない。

 このようなモダニズムかポストモダニズムかという議論が日本では起こらないところをみると、なお日本において、特に日本の指導者においてはモダニズムが疑われていないことを示しているといわねばならぬ。たしかにマスコミではしきりに自然保護が叫ばれ、政治家も少しは環境問題のことを語らなければ当選も難しくなっている。しかしだれも本気でこの文明の方向を変えようとしていないように思われる。

出典:梅原猛『いま何が問われているのか(モダニズム信仰)』朝日新聞、1993年6月13日付朝刊。

◆◆◆◆

このエッセイがなぜ心に響いたのか、それは詳しくは述べない。ただ、これを読みながら僕が感じたのは、今「持続可能な開発」とか「SDGs」とかの時代に、それらのアジェンダへの貢献を高らかと謳っているのが企業の人たちで、それは確かに生きとし生けるものとの共生を強調しているものの、企業としての成長とか、一国経済の成長とか、そういうリニアな発展径路との共存は可能と言っている点で、必ずしもポストモダンの立ち位置を取れていないのではないかということだった。

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