『国盗り物語』(2) [司馬遼太郎]
内容(「BOOK」データベースより)
気運が来るまで気長く待ちつつ準備する者が智者。気運が来るや、それをつかんでひと息に駆けあがる者が英雄。―それが庄九郎の信念であった。そして庄九郎こそ、智者であり英雄だった。内紛と侵略に明け暮れる美濃ノ国には英雄の出現は翹望する気運が満ちていた。“蝮”の異名にふさわしく、周到に執拗に自らの勢力を拡大し、ついに美濃の太守となった斎藤道三の生涯。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』における本木・道三の最後の回を見る前に、司馬遼太郎『国盗り物語』の斎藤道三編を読み切っておくことにした。先週末、土曜日に読み始めて、日曜日の番組放送開始前までにほぼ読み切った。ちょっとネタばらしになってしまうが、作品の中では道三は本巻で死にまでは至らない。道三vs高政の長良川合戦までは描かれていないので注意は必要だ。第3巻の織田信長編にまでお楽しみはとっておくことにしよう。
ドラマでは最後まで高政は自分の子であると道三が主張し続けているが、本書の方は土岐頼芸の子だと最初から知りながら黙って我が子のようにかわいがったとある。そして、頼芸追放の口実として、頼芸の子に家督を譲るよう迫っている。ドラマの方ではその、高政が頼芸の子なのか道三の子なのか曖昧な形にして、頼芸自身が高政を利用する形で展開している。(道三は、知っていたかもしれないが、それでも高政の実父は自分であると主張し続ける。)そのあたりの描き方が、ドラマと本作品は大きく異なる。(この辺、作品のネタばらしになってしまっていますが、お許しを。)
もう1つ、ドラマではあまり明確に描かれていなかった、斎藤家に明智家がわりと近しい関係となった経緯については、この司馬作品を読むとちょっと理解しやすくはなった。ドラマでも司馬作品でも、道三が十兵衛を特別扱いしている姿は描かれているが、明智家が道三と近いのは、道三が松波庄九郎として美濃国に入ってきて土岐家に接近してわりとすぐの時期に、十兵衛の父が庄九郎の才覚を見抜いて支持するようになってからだということになっていた。
また、ドラマではこれまたあまりしっかり描かれていなかった小見の方(帰蝶の母)が明智の出だったというのも、司馬作品を読んで理解したところである。
1年間とはいえ、大河ドラマだと端折られる描写も結構ある。そうしたものを埋めていくには、自分なりに情報補足のための読書は必要だと思っている。『麒麟がくる』は主人公が明智光秀だから、この後舞台が越前国の朝倉家を頼って捲土重来を期すところに移っていくが、一方で織田信長の美濃攻略戦はこの後必ず出てくるだろう。それを楽しみに、これからも週末読書で司馬作品の織田信長編を読み進めたい。
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