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『ホハレ峠』 [持続可能な開発]

ホハレ峠;ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡

ホハレ峠;ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡

  • 作者: 大西 暢夫
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2020/04/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
内容紹介
日本最大のダムに沈んだ村、岐阜県徳山村の最奥の集落に、最後の一人になっても暮らし続けた女性(ばば)がいた。奉公、集団就職、北海道開拓、戦争、高度経済成長、開発……時代を超えて大地に根を張り生きた理由とは?足跡をたどり出会った人たちの話から見えてきた胸をゆさぶられる民衆の100年の歴史――。映画『水になった村』(第16回地球環境映像際最優秀賞受賞。書籍、情報センター出版局刊)監督の最新刊!

4月下旬に発刊されたばかりの本であるが、アマゾンで注文して、入手できしだい、半日がかりで一気に読み切った。著者は中学の5年後輩で、弟の同級生である。大西監督の映画『水になった村』(下記動画)は、昨年見た。


岐阜県揖斐郡内で生まれ育った僕らの世代は、生まれて物心がついた頃から、「徳山ダム」の建設計画のことはよく聞かされた。日本最大級のダムが故郷の揖斐川上流にできるという宣伝のされ方は、子ども心に地元愛のようなものをかきたてられたが、その一方で、ダム湖の底に沈む集落に住む住民の移転の問題もメディアでは度々指摘されていた。その住民移転という代償の部分は、小中高生だった頃はあまり深刻には捉えていなかった。僕の意識の低さの問題である。

高校の時は、徳山出身の同級生がいた。大垣市内に下宿して、学校に通っていた。親しく話せるほど近しい関係でもなかったので、村のことを訊いたことは一度もなかった。

運転免許証を取得してからは、父の車を借りてドライブで出かけたことが何度かある。付き合っていた彼女とのデートでも。徳山村の中心地・本郷集落から国道417号線で北上し、東側の尾根を抜けて根尾谷の方から南に下りるルートだ。いずれ湖底に沈んでしまう集落だ。そうなる前に、目に焼き付けておこうと思って訪れた。その頃も、ダム開発には肯定的だった。

そのダム開発に、疑問を抱くようになったのは、転職して今の会社で働くようになってからのことである。年齢的には30歳近くになっていた。

―――徳山ダムは2007年9月に試験湛水を開始した。

小学生時代に社会科で使われた白地図の中で、揖斐川上流部の地図もあった。そこで、徳山村に「門入(かどにゅう)」という名の集落があることも知っていた。当時の白地図で、徳山村の集落で載っていたのが本郷と門入しかなかった。そして、僕自身も結局、国道417号線沿いの谷しか通過しなかったので、門入地区がある西の谷にまで足を踏み入れることはなかった。本郷地区からさらに18kmも上流なのだ。

結局、この集落は上流だったのでダム湖に沈むには至らなかったようだが、物資の入って来るルートが水没したので、結局誰も住まなくなった。そこに1人残っておられた廣瀬ゆきえさんのライフヒストリー・インタビューとそれを補完する取材を中心に、本書は描かれている。(このゆきえさんと司さんの御夫妻は、映画『水になった村』のプロモーション映像の中にも出てくる。)

当然、この揖斐川流域の最上流域の集落だから、そこに住んでいるお年寄りの方々は、生まれてこの方ずっとこの集落や徳山村内で過ごしてこられたのだろうと勝手に想像していた。ところが、本書を読んでいくと、ゆきえさんの移動の範囲や頻度は、僕が想像していたよりもはるかに広範囲かつ高頻度だった。

この集落でも昭和8年頃まで養蚕は行われていたらしいが、そこでできた繭をどこに出していたかというと、なんと、門入地区からホハレ峠を越えて隣りの坂内村川上地区を経由し、さらに鳥越峠を越えて滋賀県近江高田に持って行ったという。坂内村といえば、小中学校がある広瀬地区がゲートウェイ的集落となるが、そこから川上地区までは結構離れており、にもかかわらず川上はかなり開けた集落だった。そこは、滋賀県側と岐阜県揖斐郡との中継地点でもあるが、門入と近江高田の中継地点でもあったのだ。すみえさんが徳山から外に出たのは、14歳の時のこの繭運搬が最初だったらしい。(この滋賀県の養蚕の話が、大西監督の別の著書『お蚕さんから糸と綿と』刊行にもつながっていく。

さらに、すみえさんはその後、厳しい冬の間、彦根の紡績工場、愛知県木曽川町の紡績工場等への出稼ぎを経験し、さらに司さんに嫁ぐ形で、北海道ニセコ村にも移住している。このニセコ村には、徳山村出身者が北海道開拓で大勢移住していたらしい。これも驚きだった。(が、よくよく考えれば、僕の家系でも、その当時北海道に移住した親戚がいたのだから、徳山出身者でそういう人がいても全然おかしくないか。)

でも、結局、すみえさんと司さんは、門入の廣瀬家の養子になる形で村に戻って来る。しかし、幼子を育てるには現金収入も必要ということで、また頻繁に出稼ぎをしている。今度は岐阜市とかに…。

この国内移動の多さは、家計収入の補填という意味では理解できるところはあるものの、話が北海道とか八ヶ岳にまで広がっているのは驚きであった。また、上流地区への交易ルートが必ず下流地区からだというのも僕の勝手な先入観で、車が走る道路が門入にまででき上がるまでは、ホハレ峠越えの交易ルートが利用されていたというのも、自分にとっては目からウロコであった。

ダム建設の関係で言えば、ゆきえさんの次の言葉が僕らの胸には深く突き刺さる。

「ここ(移転先)に家を建てて、やがて20年になる。正直に言うと、もう金がないんじゃ。ダムができた頃は、一時、補償金という大金が入ってきて喜んだこともあった。でも今はそうじゃない。気付いたころには、先祖の積み上げてきたものをすっかりごとわしらは、一代で食いつぶしてしまったという気持ちになってな。徳山村の価値は現金化され、後世に残せんようになったんや。20年経って、実感を持つようになったんじゃ。金を使えば使うほど、村を切り売りして行くような痛い気持ちや。
 補償金で暮らしが豊かになり、いい車にも乗れて、大きな家も建てて、いいことばかりを、ダムの偉い人らに何年もかけて教えられてきたんじゃ。『おばあちゃん、ここに1つハンコをついてくれたらいいで』。村中がそんな雰囲気に押しつぶされていったんじゃ。体験した者じゃないとわからんが、耐えられんぞ。結局、税金などを長い時間をかけて支払っていたら、補償金は国に返したようなもんや。気づけば、わしらの先祖の財産は手元にすっかりことなくなっとるんやからな。
 そして村までなくなり、バラバラになってまった。みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」(pp.70-71)

本書は、揖斐川流域に住む多くの人には読んで欲しいし、未だに高度経済成長期に立案されたインフラ建設計画に執着する公的セクターに翻弄されている地域の多くの人々にも読んでみて欲しい。農山村の暮らしは、こんなに豊かだったのだと改めて気付かされるルポだし、「近代化」という美辞麗句の下に、そういう地域の豊かさを犠牲にしてきた日本の開発の経験を、住民の視点から描いてもいる。いいところだけを殊更に持ち上げて、「ニッポン、いいね!」と言ってるだけではなく、こうしたSDGs的にもイケてないことをやらかしてきた日本のダークサイドの経験というのも、もっと掘り起こし、記録に残されるべきだと思う。

最後に余談だが、僕はこの坂内村川上地区からホハレ峠に上るルートの入り口も、鳥越峠に上っていくルートの入り口も、どのあたりなのかだいたい想像がついている。昔神戸町から夜叉が池まで往復するウルトラマラソンを走ったことがある。どちらもその支道だ。機会があれば、この夏、ちょっと歩いてみたいなとも思っている。




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