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『村に吹く風』 [読書日記]

村に吹く風 (新潮文庫)

村に吹く風 (新潮文庫)

  • 作者: 山下 惣一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1989/12
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
1ヘクタールの水田を夫婦二人で耕して、秋の収穫80俵。肥料代など差し引くと、手取りはたかだかン10万。おまけに聞こえてくる声は「米は作るなミカンもやめろ。日本の農業、過保護だぞ」…まったく、やってられないよ。でも農業は、ひとの命を支える仕事。それをつぶしてなるものか。四季折々の村の暮らし、農業の実情をユーモアたっぷりに描く、都会人、消費者へのメッセージ。

今、ティンプーでは、『マウンテンエコー文学祭』という毎年恒例のトークイベントが市内各所を会場にして繰り広げられている。今年はブータンとインドが国交50周年ということで、例年にも増してインド色の強いイベントになっている気がする。去年は、知り合いの英国人が著書のプロモーションも兼ねてパネル登壇されていたので、ちょっとだけ顔を出した。今年は、あわよくば現在執筆中の本をここまでに発刊できたら、登壇狙ってやろうと思っていたのだけれど、最後の1章分の書き下ろしに手間取り、目標だった6月中の脱稿から2ヵ月も遅れて現在も奮闘中である。よって、文学祭に行くぐらいなら自分の原稿を書くのに時間を使おうと思い、せっかくのお誘いも断っている。とはいっても、僕が書いている本は文学じゃないが(笑)。

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《去年のマウンテンエコー文学祭の様子》

今月に入ってからご紹介している本の多くは、今週末ブータンを離任されるJICAの専門家の方からいただいたものだ。合計7冊あるのだけれど、僕自身も自分で購入しておいて積読状態にしてある本がまだまだたまっていることから、いただいたものだけでも先に捌いてしまおうと、暇を見つけては読んでいる。『村に吹く風』はその第4弾。これまで読んだ本も全て面白かったけれど、本書は別の意味で良かった。いわゆる「農村文学」というジャンルなのだ。

著者は唐津で農業を営みつつ、小説も書かれる方のようで、本書は昭和59年(1984年)頃に朝日新聞で連載されていたエッセイを集めて書籍化されたものである。この頃の農業を取り巻く環境といえば、日米貿易摩擦でオレンジ輸入の市場開放が争点の1つになっていた時期で、農業に対する風当たりは極めて強かった。当然本書の中でも、政府の貿易政策の影響だろうと思わせる農家の対応の様子が描かれているし、また1993年の「平成の米騒動」ほどではなかったにせよ、農水省の減反政策がうまく機能せず、減反目標を上回る休耕田が出て来始めた時期だった。従って、米作に関する農家の愚痴、農政批判というのも本書では頻出する。僕自身にとっては、米国でもお米を作っているんだというのを初めて知ったのがこの時期だった。

岐阜の農家出身の僕は、本書が書かれた1980年代の中頃、東京の大学で国際関係論を勉強していて、帰省した際に農業を営む父と激論をやったことがあった。農業やったことない若造が何頭でっかちなことを言っとるかと父だけでなく母にまで言われたことがある。うちの父は本書の著者とほぼ同世代。当時父の言わんとしたのはこういうことなのかと改めてわかった気がする。百姓の矜持が、軽妙な語り口からもひしひしと伝わってくる、とてもいい本、読み継がれるべき本だと思う。

「記録なければ現実なし」――どんな現実があろつとも、それが記録されていなければ、その現実はなかったに等しい。当時の農政はメディアの論説や経済書等を読んである程度は知っていたつもりだけれど、それを受け入れる農家の側がどう考え、どう対応していたのかは意外と知られていない。それをエッセイや小説という形で書き記す取組みがこうして行われているところに、僕は日本の文学の奥深さを感じる。

本書を読んでいくつか思い出したこともある。本当はマーカーで線を引っ張りたかったぐらいだが、その先の本書の活用を考えると、せいぜい印象に残った記述のあるページの端を折り曲げておくぐらいしかできなかった。その一端をここにご紹介してみたい。

 この二、三十年、村の暮らしの中から消えたものはたくさんある。中でも、親から子、子から孫へと代々引きついでいく”伝承”の喪失が大きなもののひとつだとつねづね私は考えている。いまの親は子供に伝えるものを持たない。持っているとしても、昔の親に較べるときわめて少なくなっている。その分、親と子の結びつきも弱まっているのだろう。
 百姓という仕事は、従来、伝承技術であった。牛の使い方、畦の塗り方、種子のまき方、鍬の握り方、みんな親から教わり、仕込まれて自分のものとし、さらに次の代に伝えることでつながってきた。
 昭和三十年代以降の急速な技術革新は、親が子に伝える”わざ”を機械や農薬にとってかわらせることでもあった。かつて親が子に伝えたものは、いま、資格、免許などの制度に変わってしまっている。親が子に伝えるものは、いまの村の暮らしにはほとんどない。その分、子は親を尊敬しなくなっていく。(pp.143-144)

 私が村の農協青年部の副部長をしたのは十年前のことだが、その頃は農政運動といえばもっぱら米価運動であった。私たちは生産者米価値上げを叫んで農協倉庫の前に坐り込み、コメの積出しを阻止する「出庫阻止運動」をやったことがある。
 農業問題はコメ問題であり、国内問題であった。まさか、十年後に、外国の大統領宛に抗議文を書く時代がこようとは当時は夢にも思わなかった。国内で生産できないもの、不足するものだけが輸入されると信じていたのである。
 ところが、国内にミカンは余って腐っているのに、それでもオレンジを輸入する時代になってしまった。(pp.123-124)

 平坦地の条件のいい水田と違って、条件の悪い山の棚田で作っているのはコメという経済作物ではなく、祖先の執念なのである。
 なんとかコメを食いたい。コメを作りたい、子孫にも白いコメの飯を食わせてやりたい、祖先のそうした思いがこめられている田んぼだからこそ簡単には捨てられない。その一念で石垣を築き、土を運び、石を拾い、水を引き……そのために流した汗と涙を思えば、荒らしたり捨てたりするのが怖いのである。(pp.73-74)

どの国であっても、農政を考えるにあたって、農家の視点というのは大事にしなければいけないものだと思う。農家が何にどのように思いをはせているのか、直接聞き取るすべはなかなかないし、ましてや日本以上にトップダウンの指示が多いブータンでは、政府の役人から言われたことは取りあえずは受入れ、うまくいかなければ政府のせいにするのが農家の思考・行動パターンであるように思える。農民が受け入れたからと政府は誤解するかもしれない。虚心坦懐に農家の本音を聞き出す努力をしなければ、政府の役人は「農家を教育しなければ」という上から目線の言い方で終わってしまう可能性もある。

農村文学は、そうした農家の声にならない声を拾って明らかにし、為政者に実態を伝えるのに役立つと思う。頭でっかちが空中戦を繰り広げるような世界を生きている人々に、「現実をもっと見ろよ」と警鐘を鳴らせる、バランスを与えてくれるジャンルだと思う。しかし、元々、文学といっても詩ぐらいしか盛んではないブータンに、「農村文学」なんて概念自体がそもそも存在しない。作文自体があまり得意ではないので、小説を書くという行為自体もあまり盛んではない。ましてや小説を読むのもあまり多くはない人々である。

以前、僕は「ニュータウン小説」とも言われる重松清作品をやたらと読んでいて、彼の作品をしっかり分析すれば、ニュータウンの実態について論文にでもできるんじゃないかと冗談半分でブログで述べたことがあるが、同様に山下惣一の一連の著作をまとめて分析して、マウンテンエコーのような場で発表でもすれば、インドの作家に圧倒されるような文学祭に、一石を投じるような内容になるんじゃないかと、これまた冗談半分で思っている。それをやろうにも山下作品はこれが最初だし、何しろ来年の夏に僕はここにはいない。

それはそうと、趣味のブログはこれくらいにして、残る1章の最後の1節、とっとと書き上げて出版社に持ち込まねば!!
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