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『悲素』 [帚木蓬生]

悲素

悲素

  • 作者: 帚木 蓬生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/07/22
  • メディア: 単行本
内容紹介
タリウム、サリン、そして砒素――。「毒」はなぜ、人の心を闇の世界に引きずり込むのか? 悲劇は、夏祭りから始まった――。多くの犠牲者を出した砒素中毒事件。地元の刑事の要請を受け、ひとりの医師が、九州からその地へと向かった。医師と刑事は地を這うように、真実へと近づいていくが――。「毒」とは何か、「罪」とは何か。現役医師の著者が、実在の事件を題材に描いた「怒り」と「鎮魂」の医学ミステリー。

実に久しぶりに帚木作品を読んだ。540頁もある大作である。

いつもの帚木作品とはちょっと違う。何せ実際に起きた事件をベースにした作品であり、明らかに「あの人」という人が登場する。仮名にしてあるけど、ほとんど実名に近いほどの仮名に過ぎない。だから、どこからどこまでが実際に起きたことで、どこからがフィクションなのかがよくわからないぐらいに、実際の事件に近い内容になっている。

この作品は、急性砒素中毒の可能性を指摘した九州大学の衛生学教室の教授の目線で描かれていて、教授が和歌山入りして実際に診断したカレー事件の被害者と、事件発生前から急性砒素中毒が疑われていた数名の被害者の症状が相当詳しく描かれている。カルテや心電図、CT検査、血液検査データ等もこれでもかと言わんばかりに盛り込まれている。これこそ、どこまでが事実で、どこまでがフィクションなのかがまったく分からない領域。専門用語も多く、実際に関わった医師が自分で回顧録を書いたんじゃないかと思ってしまうような詳細な記述だ。

しかも、欧州で過去に起きた砒素を用いた殺人事件や冤罪事件までしっかり調べて、その経過を所々で詳述しておられる。これは、ただでも致死量の砒素を飲まされて起きるような殺人事件は過去にも殆どないため、数少ない症例やその後の刑事裁判の推移は、世界中を見渡してありとあらゆる文献から引っ張り出してこないと確認できない。薬品中毒の専門家になろうとするなら、ここまで知ってなければいけないのかと驚かされる。

ついでに言うと、砒素が使用された事件だけではなく、松本サリン事件や薬害スモン事件といった、過去に日本を震撼させた事件までその経緯が描かれているのである。主人公の教授は、過去にこれらの事件の薬理分析に関わったことがあるという設定であった。スモン事件の時は原因の特定に至るまでの検討プロセスを、そしてサリン事件の場合は原因物質の特定に加え、実際に現地入りして警察に協力し、裁判に出廷した過去の経験を回顧している。

なぜこんな作品になったのか。しかも、なぜそれが実名によるノンフィクションではなく、一応小説というスタイルをとったのか―――。

実は、和歌山カレー事件で死刑判決が出ている被告人には冤罪の可能性があり、弁護人側から再審請求が出ているらしい。主任弁護人は安田好弘弁護士。10年前に安田弁護士の著書『「生きる」という権利』を読んだが、「罪は罪として償わねばならないのは当然であるにしても、罪を犯してしまった人の生き方自体を裁くものではない。裁判は従って、その加害者の犯した罪が何であるのかを同定するためにある」というような主張をされていた方だ。

今回の帚木作品を読むと、実は和歌山県警が容疑者を特定したのは、カレー事件そのものではなく、その事件発生の10年以上前から、容疑者の周辺で、原因不明の症状で病院に担ぎ込まれた患者が数名おり、さらには容疑者の両親が容体急変で死亡したり、近所の知人宅が火事で焼失したりと、不思議な出来事が多発していたのに気づいたからである。特に、嘔吐や下痢などの症状で病院に搬送されてきた人々の診断記録から、主人公の教授は急性の砒素中毒であるとの疑いを強め、医学的見地からの意見をもとに、警察は捜査を進め、裁判も進んだ。

だから、和歌山地裁の判決文を読んでも、カレーに砒素を混入させたのが同被告だという明確な物的証拠があったわけではなく、地裁の判断は状況証拠で成り立っている。容疑者本人は自白してないし、目撃者の証言もない。「冤罪だ」と言われれば確かにその可能性はある。被告の有罪判決が出て以降、警察は捜査を行っていないので、カレー事件の真相究明には今まで至っていない。でも、この教授の立場から言えば、砒素中毒の経過をもとに遡っていけば、砒素を扱えたのが容疑者しかいないという論理的帰結に至ると主張したいところだろう。

しかも、1998年の事件発生後、数年で教授は定年を迎えて退官している。退官後も裁判には関わったかもしれないが、人の記憶はどんどん薄れていってしまう一方、いつ何時、同じような事件が起きないとも限らない。

その時のために、こうした克明なドキュメンタリーは残しておく必要があるかもしれない。裁判はまだ続く可能性があるので、実名を使ったノンフィクション作品としては書けないかもしれないが、医学的根拠についてはきちんと記録しておく必要はある。作品の中で、19世紀フランスの『ボヴァリー夫人』のあらすじへの言及がある。夫人が服毒自殺の際に使ったのが砒素だということで、服用後の経過に言及がされているが、同様に文章として記録に残そうという強い著者の思いが、この500頁超の大作には感じられるのである。

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