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『民主主義のあとに生き残るものは』 [インド]

民主主義のあとに生き残るものは

民主主義のあとに生き残るものは

  • 作者: アルンダティ・ロイ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
内容(「BOOK」データベースより)
インドでは、市場主義とヒンドゥー至上主義が猛威をふるい、人びとの生を脅かしている。しかも民主主義がその暴力を正当化している。同様のことは、世界の至る所で見られるのではないか。そしてまた、各所で起きている小さな抵抗に、これからの希望を見出すことができるのではないか―。注目のインド人作家がしなやかな言葉でつづる政治エッセイ集。ウォール街占拠運動でのスピーチや、初来日時のインタヴューも収載。

先日、ふと『小さきものたちの神』に再挑戦してみようかと思い、図書館で借りてみたのだが、英国ブッカー賞をとって何か国語にも翻訳されたこの小説も、小説であるだけに読もうという気がどうしても起きず、1ヵ月手元に置いた末に結局返却してしまった。その間に、やっぱりアルンダティ・ロイといったら現代インドの政治社会に対する切れ味鋭い批判が売りだろうと思い直し、比較的最近出ている彼女のエッセイ集を代わりに読んでみることにした。

この本は、ロイのこれまでに出している書籍をそのまま翻訳したわけではなく、各所でこれまで発表してきたエッセイを集めてそれを翻訳して載せたような内容だ。彼女は、ちょうど2011年3月11日、日本での講演活動のために東京に滞在してて東日本大震災に遭った。都内で13日に予定されていた講演会は中止となった。このため、ロイ招聘に携わった本書の訳者を含めた関係者は、講演会でロイが述べたかった内容「民主主義のあとに生き残るものは」を文章化して本書に収録するとともに、3月12日にロイと訳者の本橋哲也氏が行った対談録を巻末に収録した。

さらに、これを書籍化するにあたり、ロイがウォール街占拠運動を支援する演説「帝国の心臓に新しい想像力を」をYouTubeからダウンロードして第1章に、ロイ本人から2012年になって提供されたエッセイ「資本主義―ある幽霊の話」を第3章に、ロイの2009年のエッセイ集『Listening to Grasshoppers(バッタの声を聴いて)』からカシミール問題を詳述した「自由(アザーディ)―カシミールの人びとが欲する唯一のもの」を第4章に付け加えた。これによって、グローバルな資本主義、帝国主義、インド国内でのヒンドゥー至上主義、インドが自画自賛する民主主義の実態等が草の根の脆弱な人々に及ぼす影響と人々がそれにどのように対抗できるのかを論じている。

いろいろな論点が登場する。ただ、ウォール街占拠運動は別としてその他の論点はいずれもそのフォーカスがインドにあるため、現代インド社会と政治経済を見るオルタナティブな見方として、極めて有用なエッセイが集められていると思う。

それらを全てここで紹介するわけにもいかないので、印象に残った記述を3つほど挙げてみたいと思う。

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1つ目は第3章「資本主義」に書かれている「財団」に関する記述。先に国連で合意された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」では、目標達成に必要な開発資金の動員策として民間資金が大きくクローズアップされ、企業の海外直接投資に加えて、企業の設立した「財団」の資金の果たす役割にも大きな期待が集まっている。ビル・ゲイツやクリントン元大統領等の名前を掲げた財団は既に国際協力事業にも熱心で、注目されるのはよくわかる。でも、財団の事業資金のベースとなる基本財産は誰が拠出したのかといえば企業であり、財団の理事会メンバーにも同じ企業出身者が含まれていたりして、財団の事業が企業の論理やプライオリティとまったく無関係ではいられない。

多くの財団は掛け値なしの慈善活動を行ってきたように見えるから、企業とそれが出資する財団との直接的なつながりが見えなくなってきているのは仕方ない。そして財団の気前の良さを僕たちは認め、大きな期待を寄せるかもしれない。でも、著者はそこのつながりをもう少し明らかにしていかないと、財団の寛大さだけに頼った事業展開は危うさも伴うことになる。

ロイのこれまでの著作でもそうだが、目の前で起こっていることについて、その背後に誰がどのような形で関わっているのかをかなり細かくあぶり出すような努力が払われている。一見問題のなさそうな善行であったとしても、それを施す側の人々の背後にある動機、究極の黒幕といったところまでわかってくると、善行に思えるものも全く違った見え方がするかもしれない。

第2には、著者もかなり深くかかわったインドのナルマダ・ダム建設反対運動に関して、結局ダム建設を止められなかったのはなぜかという点についての著者の分析である。
「たしかに多くの成果はありました――道義的な論争では勝利を収めましたし、人びとが抵抗する権利を持っていることも示すことができた。しかし結局負けたのはなぜか?多くの失敗の中で、中産階級が運動の指導層だったこと、もっとはっきり言えば、1人のリーダーがメディアによって指導者に祭りあげられ、運動もそれを止めようとしなかったことがあげられると思います。」
 ――そのリーダーは…?
「メダ・パトカール(Medha Patkar)。彼女はたしかに傑出した人物でしたが、1人の指導者に頼りすぎたことは運動をひ弱なものにしてしまったと私は思います。それは真の民主主義を運動の中に作り出すことができませんでした。」(p.120)
ここの記述にはメダ・パトカールが中産階級出身で、中産階級の武器に頼ろうとする中で、運動内でもそうした人々が権力を握って、他の人々は力を奪われてしまうということが生じる。運動の内部に階層性が生まれてしまうということである。非暴力抵抗運動であっても、どんな構造を持った非暴力運動なのか、非武装の戦闘性とは何なのかを問うことが大事だとロイは主張する。ただ、残念ながらこの問題に関する論議はインドでもまだ行われていない。そして、この点は安保法制阻止を叫んだ国会議事堂前での市民運動に対する示唆も与えているようにも思える。

3つ目は次のような記述。
  ――抑圧された者たちの側につこうとする知識人の声が周縁化されているとき、どのようなかたちでより多くの聴衆を得ようとする努力がなされるべきでしょうか?
ロイ 芸術がその役割を担うべきだと思います――音楽や文学や映画やさまざまな芸能。私は正しい考えを持っている、と言うだけでは不十分で、自分自身の範囲を超えて人びとに届けること、それを人びとの心に触れる術(アート)にしあげることが必要です。そのようなアートは人びととつながり、人びとをつなげて精神の共同体を作りあげることができる。これこそが私たちにとって最大の挑戦です。しばしば体制反対派はただ自分が正しいと思いこむことで、差別され周縁化された自分を正当化して終わってしまうことが多いですが、芸術はそうした主張をはるかに超えて人びとの心に届くことができます。(pp.147-148)
僕の友人で、まさにこうしたアーティストのネットワークを形成して、伝えたいメッセージのインパクトを強める取組みをかなり長きにわたって続けているインド人がいる。残念ながら彼本人は体制肯定派で政治志向も見え隠れしており、そのメッセージが多くの抑圧された人々の声をうまく拾って代弁しているとは思えないのだけど、なぜ芸術に注目したのかという点では、ロイのこの発言を見て、なるほどと得心したところがあった。同じく、長年南アジアで識字教育の普及に尽力された日本人の方も、アートのメッセージ性に非常に注目していて、その要素を自分の環境教育、人権教育の活動に盛り込もうと取り組んでおられる方がいらっしゃる。

たまにはこういう本を読んで、物事には表の顔だけじゃない裏の顔があるということを肝に銘じるようにしないといけない。良いタイミングで良い本を読んだ。

最後にロイの作品を過去に紹介したブログ記事を以下にリストアップしておく。

『わたしの愛したインド』(2000年
http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2010-02-17

『誇りと抵抗―権力政治(パワー・ポリティクス)を葬る道のり』(2004年)
http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2010-01-03

『Listening to Grasshoppers: Field Notes on Democracy』(2009年)
http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2009-12-10-3

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