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グローバル化時代の東南アジアのムスリム [時事]

Southeast Asian Muslims in the Era of Globalization

Southeast Asian Muslims in the Era of Globalization

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
  • 発売日: 2014/12/16
  • メディア: ハードカバー
内容紹介
Islam and Muslims in Southeast Asia have often been described using two sets of very contradictory terms. On the one hand, they are imagined as being Sufistic, syncretistic and localized, as opposed to their counterparts in the Middle East who are considered to be orthodox and 'fanatical'. On the other, after the 9/11 attacks and especially after the October 2002 Bali bombing in Indonesia, the danger of radical Islam has been emphasized with Southeast Asia suddenly becoming a new location in the War on Terror. This volume seeks to bridge the gap between these opposing perceptions and demonstrate the appropriate position of Islam in Southeast Asia by looking at the Muslim responses to globalization and processes of negotiation. Foreign ideas, goods and texts are creatively adapted and re-contextualized in local situations, acquiring a localized cultural meaning. However, globalization aptly adapts to local conditions, penetrating deep inside territories. The contributors examine how Southeast Asian Muslims respond to globalization in their particular regional, national and local settings, and suggest global solutions for key local issues.

この本は事情があってかなり早い段階から入手して読んでおり、しかもこの本から何が読み取れるのかを整理していたので、ご紹介したいと思う。(せっかく書いたメモがお蔵入りになってしまいそうだったので。)

提言1 世界的なイスラム主義運動とイスラム復興の大きな趨勢は、東南アジアの公的制度・組織や公共政策にも影響を与えている。事業実施の外部条件として、その世界的趨勢には注意を払うことが必要である。

イスラムではイスラム共同体の成員全体の利益が考慮されなければならないとされている。富は善であるが、その追求や蓄積の結果もたらされる経済的報酬は共同体の他のメンバー、特に貧者に還元されなければならないと説く。こうしたイスラム共同体の平等観や正義感が、貧富の格差の広がりなど現実世界の社会経済的矛盾や、また政治腐敗がある場合、それは政治経済社会制度や人々の生活が十分にイスラム的でないから起こっているのだとし、イスラムの原点に戻ろうとする運動となって現れる。これがイスラム主義運動で、1970年代以降顕在化してきた。イスラムを政治・社会の根本に据え、現代の矛盾を正そうとする運動である。

各地で起こっているイスラム主義運動のモデルとなっているのはエジプトのムスリム同胞団である。本書の中で、Shiozakiは、ウラマー(イスラム法学者・教師)の政党として設立されたマレーシアイスラム党(PAS)の政治思想が、近隣の南部タイやインドネシアだけではなく、ムスリム同胞団にも繋がるエジプトのウラマーとのネットワークを通じて形成されていると指摘する。また、van Bruinessenによると、インドネシアのイスラム運動には改革主義と伝統主義という2つの大きなグループがあったが、スハルト政権下では改革主義グループがイスラム主義の国内普及チャンネルの役割を果たした。しかし、スハルト体制崩壊後のイスラム主義者や原理主義者の国際的な活動は、改革主義、伝統主義双方を代表する主要組織に影響を及ぼし、西洋文化への反感を示す「ガズウル・フィクリ(文化侵略)」という言葉が、アラブ・イスラムによる文化侵略を示す言葉として使われるようにもなってきたという。進歩的でリベラルなムスリムは、アラブ世界だけではなく西洋からも新たな思想を折衷的に取り入れている。

東南アジアでは、こうした政治指導者や宗教指導者の間のネットワークを通じたイスラム主義の伝播だけではなく、人の移動や、テレビやインターネットの発達により、市民のレベルでも世界的なイスラム主義の影響が見られる。1970年代以降、ムスリムの一般生活の中でも、イスラム的であると認識されるシンボルや行為、道徳や正義を重視する規範が広がった。これが「イスラム復興」と呼ばれる現象で、ヴェールを着用した女性の姿が目立つようになったのがその典型例である。これはイスラム主義運動のような団体行動だけではなく、精神的な救済を求める個人的な宗教行為の高まりとも見られる。

Tatsumiは、中東、とりわけエジプトのアズハル大学に留学してイスラム学を学ぼうとするフィリピン人ムスリム学生の留学動機について分析した。フィリピン政府が公教育として認定していないマドラサ(イスラム教学校)で学んだ彼らにとって、中東留学は、マドラサで学んだアラビア語を生かして「ウラマー」と呼ばれる自立した人物になるための手段と位置づけられており、いわば、グローバル化がもたらした東南アジアの域内外の労働市場の変化に対する、周縁部からの積極的対応の1つだと指摘する。

東南アジアにおけるイスラム社会の動きを文化的背景に即して正しく理解するには、そこでの「近代化」の意味を明確に把握することが必要だと本書は指摘する。

提言2 経済発展とともに、都市部の高学歴層では信仰の個人化が進み、地域特有の宗教的伝統に対する無関心が高まっている。これが地域の紛争に対する政策対応の鈍さに繋がらないような働きかけが必要である。

近代化が進めば進むほど、人々の生活における宗教色は薄くなっていくと一般的には見られている。こうした「世俗化」は政治の分野において顕著で、政治の領域にイスラムという宗教を介入させる動きは、東南アジアで大衆の支持を受けているとは言えない。インドネシアで実施された世論調査の結果を分析したMiichiによれば、若年人口が多い都市部では宗教的実践はより個人的な取組みと見なされ、集団的宗教活動への参加には消極的であるという。また、高い教育を受け、都市部に住み、所得水準が高いほど、イスラムと矛盾する地域固有の宗教的文化に対して厳しいが、その一方で伝統的なイスラムの実践を回避する傾向が見られ、ウラマーのような伝統的宗教権威の政治への関与にも否定的であった。

ムスリム人口が多数を占めるインドネシアの状況とは異なり、フィリピンやタイでは国全体としては非ムスリム人口が大多数を占めるが、ミンダナオやタイ南部ではムスリム人口が多数を占めている。このような状況では全国レベルの政策立案と地域レベルの実施との間にねじれが起こりやすい。タイ南部の場合、仏教徒の官僚が中心を占めるタイ政府のイスラムに対する理解不足が遠因となっており、元々ローカルコミュニティには存在した仏教徒住民とムスリム住民の顔の見える互助関係が、住民と行政との間で利害調整機能を担った行政センターが2002年に廃止されて、治安対策は警察中心で行うとする決定をタイ政府が行ったのを契機に、緊張関係に変わっていったという。Chaiwatは、イスラム寺院のようなかつては暴力の及ばない聖域だった場所で暴力的衝突が発生するようになってきた現状は、住民間の関係性をさらに断ち切り、相互不信へと変質させると警鐘を鳴らし、神聖な空間を保護するためのグローバルな政策形成の必要性を強調する。

フィリピン・ミンダナオ和平交渉について論じたMasturaは、ポスト植民地時代に発展した「国民国家」が、9.11以降の「テロとの世界的な戦い」において市民の安全を保障する役割を担うようになるものの、グローバルな正義が求める要求を必ずしも満たさないかもしれない、そこにはグローバルな正義の枠組みと伝統的な国家主権概念との対立があると指摘し、「保護する責任(RtoP)」に基づく国際社会の関与に期待を寄せる。RtoPとは、国家主権は自国民を保護する責任を負い、国家がその責任を果たせないときには、国際社会が代わってその責任を果たさなければならない、国際社会の保護する責任は不干渉原則に優先するとする考え方である。

ミンダナオにおける比政府とイスラーム反政府組織MILFとの和平交渉は、最大の焦点だった「先祖伝来の土地」の認知を巡る合意文書(MOA-AD)の違憲判決(2008年8月)を機に、一時は最大60万人もの国内避難民(IDP)を出すほど両者の衝突が頻発化した。Masturaは、IDPの保護を巡り、比政府が自国民を保護していないのならば国際社会は介入する必要があると主張し、日本も参加した国際停戦監視団(IMT)の役割を評価している。

提言3 開発における宗教の役割を考えるにあたっては、客観的データに裏打ちされていない先入観に基づく議論を避け、エビデンスに基づく冷静な検討を行う必要がある。

開発における宗教の役割に関する議論は、ウォルフェンソン世界銀行元総裁が1998年から開始した宗教界のリーダーとの対話以降、活発に行われるようになったが、このイニシアチブには世銀内部からの反対意見も根強かった。しかし、こうした意見には、個人的経験に基づく単純化した見解が多く、今後開発援助機関が宗教界との相互理解を進めるのであれば、客観的データを蓄積し、事例研究を拡充して、より多くのエビデンスに基づく議論が行われなければならない(ter Haar ed. 2011)。

本書でも、Ahmad Fauziは、テロリストの教育的背景に関する実証研究では、東南アジアのイスラム教育機関と、暴力に発展しがちなイスラム過激派原理主義思想の間には、明確な因果関係はないと指摘する。加えて本書では、2010年にムスリム多数国のインドネシア、マレーシア、少数国のフィリピン、タイの4ヵ国を対象として意識調査を行い、ムスリムと非ムスリムの双方を対象に、宗教やグローバル化の進展といった諸要素が、相互に関係しつつ市民の政府に対する評価やイスラム主義に対する考え方などにどのような影響を及ぼしているかを実証しようと試みた。Tatsumiは、このうちフィリピンのデータを用いて分析を行った結果、マドラサ(イスラム宗教学校)で学ぶことが、ジェンダーやグローバル経済、ジハード等への態度に影響を与える可能性は低いと指摘し、イスラム教育機関とそこでイスラム学を学ぼうとする学生に対して安易に反グローバリズム、反国家的というレッテルを貼ることなく、冷静な目で見ようと提唱する。

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