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『田舎でロックンロール』 [奥田英朗]

田舎でロックンロール

田舎でロックンロール

  • 作者: 奥田 英朗
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
  • 発売日: 2014/10/31
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
英米ロックが百花繚乱の様相を呈していた70年代。世界地図の東端の、そのまた田舎の中学生・オクダ少年もその息吹を感じていた。それはインターネットが登場する遥か前。お年玉と貯金をはたいて手に入れたラジオから流れてきた音楽が少年の心をかき鳴らした。T・レックス、ビートルズ、クイーン…。キラ星のごときロック・スターたちが青春を彩り、エアチェックに明け暮れた黄金のラジオ・デイズ。なけなしの小遣いで買った傑作レコードに狂喜し、ハズれレコードを前に悲嘆に暮れる。念願のクイーンのコンサート初体験ではフレディ・マーキュリーのつば飛ぶステージに突進!ロックのゴールデン・エイジをオクダ少年はいかに駆け抜けたのか?

お父さんたちの子どもの頃ってどんな様子だったの?―――そんな質問を我が子から受けた時、どのように説明したらいいだろうか。そもそも僕は東京で生まれ育ったわけではないので、東京生まれの我が子に、岐阜の田舎の40年近く前の様子など説明しようにもなかなかうまく言えない。セミドロップハンドルの自転車にまたがって通学し、晩飯が終わったらさっさと自室にこもって時々割り込んでくる韓国語の放送に辟易しながら、深夜までラジオのディスクジョッキーに耳を傾ける。番組への投稿はメールやツイッターではなくはがき。汚い自筆でリクエスト曲を書いて投稿、番組で自分のはがきが読まれるかどうかでワクワク。ラジオ番組の話が翌日の学校でクラスメートとの共通の話題となる。

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《こんな自転車に乗っていたということです》

音楽はネットからのダウンロードではなく、CDでもない。EP、LPと呼ばれたレコードだ。今や音質にこだわるような音響機器など自宅にはなく、僕らの中高生時代はラジカセが主流、できればステレオが欲しいと各メーカーのカタログを集め、親の目につくところにこれ見よがしにカタログを放置して、少しでも親に気持ちが伝わるよう仕向けたりもしていた。涙ぐましい努力だが、まんざら徒労に終わったわけでもなく、僕はレコードプレーヤーだけは新しいのを買ってもらえた。それでもカセットテープへのダビングはできなかったので、最初の頃はもっぱらレコードを聴くだけ、カセットテープはラジオのFM放送をエアチェックして、コツコツ録音して何度も再生して歌詞を覚えた。(今なら歌詞もネットで検索できる。)高校生になって、ステレオを持っているクラスメートを見つけると、僕はレコード持参でそいつの自宅に押しかけ、ダビングを迫ったりもした。時代はウォークマン登場に近づきつつあった。

そんな時代を、今の東京の子ども達に説明するのはけっこう難しい。そんな時に、こんな本はいかがでしょうか? 奥田英朗の近刊のエッセイは、まさに僕らの中高生生活を見事に描いてくれている。

奥田さんと僕は同じ時代を岐阜の田舎町で過ごしている。奥田さんは各務原、僕は大垣の北のはずれの町だが、県内の二大都市――岐阜市と大垣市に隣接する田舎町の雰囲気は、非常に似ている。このエッセイの中で奥田さんが描いているローカルな経験のほとんどは僕も経験している。学校の規則で中学生男子は全員が丸坊主にさせられ、プライベートで履いていたズボンはラッパズボン、ラジオは岐阜放送(あ、僕は岐阜放送よりも実はCBCラジオとFM愛知を愛聴していたんだけど、クラスメートの間では圧倒的に岐阜放送の「ヤングスタジオ1430」、通称ヤンスタだった)。

四角四面の学校の校則と嫌な教師もいた。特に生活指導担当の教師には嫌な奴が多かった。ワンポイントのあるシューズは禁止と言われていたが、靴屋に行けばそういうシューズもちゃんと販売されている。さすがに中3の1月になると卒業後を意識するから、冒険してそういうシューズを買ったが、しっかり生活指導の先生から目を付けられた。「学校に履いてくるな」と言われたが、そのワンポイントのアルファベット2文字の前後にそれぞれ2文字をマジックで書き加え、「これは僕の名前を書いてあるんだから構わないでしょう」と反論し、その先生をやり込めた時には溜飲を下げた。

そんな「既視感」が読んでいて心地よかった。奥田さんはこう書いている。

 わたしは小学校を卒業し、五分刈りになるのと時を同じくして、自分のラジオを手にした。それは、「もう子供じゃないぞ」と周囲に宣言するようなところがあった。少年にとって自分のラジオとは、テレビの前の一家団欒を拒否することであり、親離れのシンボルであって。

当時の空気は「反体制」であった。古臭い価値観に反旗を翻し、大人たちの眉をひそめさせる――。これこそが若者の特権で、なすべきことだった。新しいことをしなければ、若者である意味がない。(中略)わたしが通っていた中学もそんな教師ばかりで、たとえば、綿のワイシャツが男子生徒の間で流行り始めると(昔は化学繊維のワイシャツが主流だった)、それだけで「けしからん。綿シャツ禁止!」となるのである。いやあ、反抗し甲斐がありましたな。自由への憧れの度合いが、今の若者とはちがうのである。ああ、ぼくらが欲しいのは自由――。

72年当時、ジーンズの主流はベルボトムで、それはそれは恥ずかしい季節だったのだ。「短足の日本人には似合わんだろう」と言ってくれる人がいなくて、国民総出で突き進んでしまった感がある。まあ、流行とはそういうものなのだが。わたしはボブソンのベルボトムを穿き(ジーンズといえばボブソン、リーバイスもリーも岐阜では聞いたことがなかった)、意気揚々と街を闊歩した。と言いたいところだが、田舎なので歩く通りがなく、自転車で田んぼ道を走った。我が愛車はセミドロップのハンドルのサイクリング車である。ウインカーは付いてたかな。形が頭に浮かぶ方は、それだけで十分切なくなられるのではないか。

こういう既視感だけでなく、違いも感じられる。奥田さんと僕は中高生生活を過ごした時期が4年ずれている。僕の中学生活はベイシティローラーズではじまったが、その時期は日本の歌謡界でもピンクレディーやキャンディーズが登場し、ジュリー(沢田研二)の全盛期であり、そして世良公則&ツイストが台頭してきた時期でもあった。待望のレコードプレーヤーを手に入れて、小遣いを貯めて最初に買ったレコードは岡田奈々の『青春の坂道』だったし、その後LPレコードも何枚か買ったけれど、中学時代に買ったLPは全て岩崎宏美のアルバムだった。

高2の文化祭、英語どころか他の科目もからっきしできなかったクラスメートが、不良っぽい先輩と組んだバンドのボーカルとして、ディープパープルの『ハイウェイスター』をステージで熱唱したのには少なからずショックを受けた。後で歌詞の意味わかってたのかと聞いてみたところ、「まったくわからん」と答えたのにはズッコケたけど(笑)。

それともう1つ、僕は当時奥田さんとは別の形で海外に関心が行っていたこともある。以前書いたことがあるかもしれないが、僕の中学時代は海外短波放送を聴いて海外の放送局に受信報告書を書き、御礼にQSLカード(通称、ベリ・カード)をもらうというBCLをやっていた。だから、そもそもレコードを購入するのに充てるお金や、地元のラジオ局に投稿するお金は節約して、受信報告書を海外に出すのにお金を使っていたのである。中学に入学した頃はステレオが欲しいと思っていたけれど、中1の後半ぐらいになるとむしろ海外の短波放送を受信できる高性能の3バンドレシーバーが欲しくなった。僕は奥田さんのように、学校の誰かが洋楽のLPを手に入れたという情報を得ると、知り合いでなくてもその人の家に押しかけて音楽を聴かせてもらうというような、洋楽を通じたヨコの人間関係の構築はあまりしてなかったけれど、同学年の誰かが新しいレシーバーを手に入れたと聞くと、見せてもらいにそいつの家に訪れたりはしていた。僕自身も念願かなって東芝のTRY-X2000を買ってもらった。この機種の発売は1976年8月だったようだから、買ってもらえたのは多分中2の時だっただろう。

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《これがTRY-X2000。今も東京の我が家で現役ラジオとして健在である》

奥田さんの言う、「〈親を通さず直接世の中とつながっている〉という感覚」は、僕の場合は洋楽のエアチェックではなく、BCLを通じて培ったものだったように思う。

奥田さんと僕の4歳の年齢差に加え、僕自身はあまり中学時代に洋楽を聴かなかったこともあって、僕はこのエッセイで出てくる洋楽のほとんどは知らない。シカゴを愛聴するようになったのは大学生になってからのことだし。それでもこの同時代を生きた証とも言える数々のエピソードのお陰で、このエッセイは十分楽しめるものとなった。

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藍色

情報にあふれた今の時代の人たちにはわかりづらいかもしれませんが、
あの当時の頃の不自由感が甦ってきました。
今は本当に音楽に恵まれていると思います。
トラックバックさせていただきましました。
トラックバックお待ちしていますね。
by 藍色 (2017-04-10 09:35) 

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