SSブログ

『50歳からの勉強法』 [読書日記]

50歳からの勉強法

50歳からの勉強法

  • 作者: 童門冬二
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2013/11/06
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
終身現役、一生勉強。51歳まで都庁勤めで激務をこなし、退職後に56歳でベストセラー『小説上杉鷹山』を上梓、86歳を超えても最前線で活躍を続ける、その秘訣とは?
11月に電子書籍リーダーKindle Fireを購入し、初めて購入した電子書籍がこの1冊だ。僕も50の大台に今年乗ったばかりなので、自分の問題意識にはよくフィットした1冊だと思った。、童門冬二さんの著書は、このブログを開設する以前にはちょくちょく読んでいて、歴史上の人物の言動を現代の組織経営やリーダーシップ論、人間関係などへの示唆としてつなげようとする独特の作風には前から惹かれていた。単なる歴史小説家とは違って、歴史から僕たちは何を学んだらいいのかについて、貴重な示唆を与えてくれる作家だ。

読んでみて初めて知ったのは、童門さんは50になるまでは東京都庁の職員で、退官するまでにかなり上のポストにまで行った人らしいということだった。美濃部亮吉知事の下で知事のスピーチライターも務めていたそうだ。

そのキャリアからも、童門さんは昔からものを書くのに秀でておられたようだ。在勤中から小説を書いて文学賞に応募していたらしい。ご本人はこの本の中で、二兎を追っているわけではなく、自分のキャリアの中では役所勤めと執筆活動は同じ方向を向いていると主張されている。どうやって執筆のための時間を捻出できたのかは興味あるところだが、本のタイトルからわかる通り、50になるまでにやっていたことまではあまりちゃんと書かれていないので、そこはわからない。

でも、これを読んでみると、童門さんは50になるまでに次の後半生をどう生きるか準備がかなりできておられたという印象で、さんざん食い散らかして何もものになっていない中で大台を迎えてしまった僕には、大きな出遅れ感を感じざるを得なかった。

確かに、ここから先はこれまでに蒔いてあった種から育った幾つかの展開を刈り取る時期だと自分も感じているが、実際のところは仕事の面ではかえって分散がひどくなってきており、希望と現実のギャップに今も苛まれている。歴史人物を現代調で描く作風を確立できた方はいいが、僕にはすぐには真似できないところも多い。

 五十歳からの勉強法の、その主目的は資格取得や知識増量などにはなく、おのれの人生や人間の深度を深める点にあります。したがって、「こうするべきだ」「こうしてはいけない」といったネバーやマストの発想からは解放されて、社会の規矩にはまらない、柔軟性や流動性の高い独自の勉強法を採用すべきです。
あえてツッコミを入れさせていただくとすれば、僕には「資格取得・知識増量」イコール「人生や人間の深度を深める」だと感じられる。おのれの人生の深度を深めるということは、今まで歩んできたことを総括することだと僕は思うが、総括するということは論文なり資格なり、形に残るものにまとめることだ。そして、そのためには知識増量が必要にもなろうし、資格取得のためにはさらに練習や勉強を積まなければならない。「社会の規矩にはまらない、柔軟性や流動性の高い独自の勉強法」って何なんだろうか。

 1冊をじっくり読み終えるまでは他の本に手をつけないという単著熟読型の方法をぼくはとりません。複数冊の本を並行して読むのが常態となっています。
これは感覚としてわかるし、実際僕もやっている。著者は1つのテーマについて、必ず5冊程度の本を集めてまとめて読むようにしていると述べている。何かのテーマで文章を書く場合は、おそらく誰でもが同じ手法を採用するだろう。ただ、このブログをご覧になっている方はよくご存じだと思うが、僕は同時並行で何冊かの本を読んでいても、その本の間で関連性が必ずしもあるとはいえない。息抜きのように小説も入れている。こういうやり方でレバレッジが効くのかどうかはわからないが、このへんはあまり変えるつもりもない。

 他者とのかかわりをいっさい断って、ものを考え、判断する自分だけの場所。孤独の思想を営む場所。そういう空間が物理的にも、精神的にも人間には必要である―――。

 ぼくは”生き物”としての自分の弱さを知っています。心身ともに行き詰って、にっちもさっちも行かなくなるときがある。そういうとき、ぼくがとる手段が、
「時限蒸発」
 です。いっとき自分で自分の行方をくらましてしまう。そうして実際に孤独でひとりきりになれる時間と空間の中に身を置く。
 いわば自主的な行方不明のことですが、そういう環境に身を置いてはじめて、ぼくの心身の疲れやこわばりはほどけ出し、精神の均衡をふたたび取り戻すことができるのです
これは、僕も実践してます。「早勉」と称して早朝4時に近所のファミレスを訪れ、2~3時間読書したり、仕事で持ち帰った資料を読んで次の仕事の準備をしたり、あるいは時にはスポーツ紙を読んだりして過ごす。また、(これを書いたら妻には怒られそうだが)時として職場からまっすぐ帰宅せず、隠れ家的に使っている喫茶店で1時間ほど過ごすことがある。その目的は、童門さんがここで書かれていることと似ていると思う。

 五十歳というのは、人生の貸借対照表の清算を行う時期でもあります。それまでの生を一度ご破産にしてゼロベースに立ち、余計なものは体から脱ぎ捨てて裸になる時期です。
 したがって、そこでは足し算よりも引き算のほうが大切になってくる。五十歳からの勉強法では、つけ加えるよりもそぎ落とすほうに重点を置くべきなのです。(中略)その多すぎるほどの勉強課目をもう一度ふるいにかけて、要不要をあらためて整理してみる必要があります。すなわち、勉強の対象の「絞り込み」。それがこの時期には大切になってくるのです。
これは一種の「断捨離」ですね。人生の残り時間を考えた場合、もうこれ以上可能性を追求していられない項目もあるような気は確かにする。今まで食い散らかしてきたもののうち、これはどうもものになりそうにないというものは、いっそのこと手放す決断をしなければならないのかもしれないと思う。

余談だが、今日僕の父は80の大台に到達した。この大台を前に、故郷の町が主宰している定期健診で肺に初期の癌が発見され、先週摘出手術を受けたばかりである。術後の経過はいたって順調で、本人はこれで祖母が死んだ99まで、あと20年は生きるつもりだと言っている。それは結構、父には長生きしてほしいと思うのだが、ここに至るまでの一連の出来事を通じて、僕は、自分にも残り時間というものがあって、それは30年ぐらいあるかないかだというのを痛烈に感じた。残りの30年をかけて、できること、できないことを整理し、できそうもないなら敢えて捨てる、「選択と集中」を図った方がいいのかもしれない。

 すなわち、人間関係を絞り込むことです。それまで広く浅い人脈を築くことに尽力してきたのなら、人生の残り時間を考えて、その拡大ではなく縮小を実践する。知人友人とのつきあいの中で、それほど重要でないと判断できるものとは距離を置き、重要と判断されるものとはさらに関係を深めていく。
すみません。残念だけど、今はその境地には至っていない。僕は今まで、米国、ネパール、インドで生活し、そこで多くの知人を得てきた。フェースブックのお陰で、今も連絡を取っている友人は何人もいる。「次はいつ来るのか」と必ず言われる。同じようなことは国内でもある。名古屋とか福岡とかで働きたいという気持ちは、今も少しは持っているのである。こういうのを全部捨てることは今の僕にはできそうもない。

童門さんのやってきたことに全部従う必要なないのだろう。一部は参考になったし、参考にしづらいことも多かった。そこは取捨選択して、僕自身の生き方に活用していけるものはしていきたい。

それにしても、電子書籍も善し悪しだな。マーカー機能があるのは便利だが、結局ページめくらないとマーカーした箇所の検索ができないし、引用した箇所が何ページにあるのかがわからなくて、付記することができない。それに、読書メーター上では、読んだ本の冊数にはカウントされるが、ページ数はカウントされない。自分の読書実績としては非常に中途半端な位置づけに終わってしまった気がする。

タグ:堂門冬二
nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0