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『日本人の知らない武士道』 [趣味]

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

  • 作者: アレキサンダー・ベネット
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/07/19
  • メディア: 新書
内容紹介
ガッツポーズは武士道に反する!?剣道七段、薙刀五段の著者は武道を通してこそ武士道がわかると語る。日々の仕事、ストレスマネジメント、勝負論に武士道を生かす。

先日、市の剣道連盟が主催で審判講習会が行なわれ、道場の師範から言われて僕も参加してきた。まだ四段の僕が市民大会あたりで審判をやるよう言われることは未だないが、少年大会ならそろそろ旗を持たせてはどうかと師範もお考えなのだろう。この秋から僕も土曜日夕方の子供の稽古をお手伝いすることになりそうなので、フェアな判定ができるようにはしておかなければならない。

講習会は、座学からはじまり、国体や全日本選手権などの試合のビデオを見ながら審判の動きと判定の妥当性の検証などを行ない、その後子ども同士、大人同士の対戦での模擬試合をやって、実際の審判をやってみるというもので、特に模擬試合では、審判の位置取りがおかしい時や一本の判定におかしい点があった場合にはその都度試合進行を止め、実際に審判を務めている者だけでなく、それを場外で見ていた他の受講者も意見を求められるなど、かなり実戦的なものだった。4時間もあっという間だった。

講習会の前半の座学とビデオ学習では「有効打突」の判断基準についても学んだ。➀充実した気勢、②適正な姿勢(打突時の)、③竹刀の打突部(物うちを中心とした刃部)、④打突部位、に並んで、「⑤残心あるもの」というのが挙げられていた。その上で、「打突後、必要以上の余勢や有効等を誇示した場合」は、審判合議のうえ、有効打突を宣告した後でも取り消すことができるそうで、実際にビデオを見て、全日本クラスでの試合であっても、十分な残心を示していないケースを何試合か見せられた。団体戦などで一本取った後でガッツポーズをやって、判定が取り消されたというケースはあるらしい。団体戦で選手が入れ替わる際に、試合を終えた選手の胴を次の選手が装着した小手でタッチするような行為は僕も試合ではよくやるが、あれも褒められたものではないらしい。

そういうのを講習会で学んだ直後だったので、本書の第1章で書かれていた「残心」に関する著者の考察は、とてもしっくりと僕の頭に入ってきた。

 試合に勝った喜びを選手が素直に表現する。それを見て観客も同じように喜び、興奮する。これぞスポーツ観戦の醍醐味である。しかし、こと武道に関しては事情が異なる。
 剣道の試合ならば、勝者はガッツポーズをした瞬間、あるいはVサインをした瞬間、もしくは飛び跳ねた瞬間、間違いなく一本を取り消され、負けを言い渡される。勝敗の喜びや悔しさといった感情を表に出すことは「残心がないふるまい」であり、武道精神に反すると判断されるからである。
 残心。聞き慣れない言葉だと思うが、長年、武道を続けてきた私は、この残心こそが武士道を武士道たらしめているもの、武士道の神髄、武士道の奥義だと考えている。
 残心は勝負が決してからの心の在り方を示す。武士道が武道の本質をなす理念ならば、残心は武道において最も根源的にして重要な教えといっていい。言葉を換えれば、残心があるかないかは、それが武道と言えるか言えないかの決定的な分岐点になる。
 一本が決まった瞬間、「やったー!自分が世界一だ!」と喜び誇る姿は、武道とは無縁のあり方だ。それは競技スポーツであり、サッカーの試合でゴールを決めた選手となんら変わりはない。残念ながら、オリンピックの柔道はもはや武道ではなく、競技スポーツの範疇に入ると言わなければならない。
 残心は武士道の神髄であると同時に、私の人格形成や生活態度に根源的な影響を与えてきた。残心を知り、わがものとすることで、私たちの日々の生活、生き方は変わる。(pp.30-31)

残心の日常生活への応用の部分は、その具体例の記述を読んでもそこまではとてもできんと思ったが(苦笑)、こと武道と競技スポーツの境界線についての指摘は、ものすごく的確だと思う。そして、柔道はすでに武道的要素は捨てて競技スポーツの道を歩んでおり、オリンピックなどを見ても、日本人柔道選手は勝てば平気でガッツポーズをするし、感極まってピョンピョン飛び跳ねたりもする。選手に付いているコーチも、勝てば選手を抱きかかえて歓喜の輪に加わり、判定が微妙なら審判に不服をアピールしている姿がよくテレビ映像に映し出される。そういうのを見ていると、柔道はサッカーなどと大して変わらない競技スポーツと化していると思うし、オリンピック競技化を頑なに固辞してきた剣道はまだまだ武道としての生き方を貫いているように思える。

当然、この2種目が中学1、2年の体育で必修化された「武道」の中で、その選択種目となっているのはおかしく感じる。剣道はともかく、柔道はもはや武道とは言えない。ただ、著者はこの柔道が「武道」の選択種目になっていることを疑問視するのではなく、むしろ、文科省を含め、僕たち日本人が何の深慮もなく「武道」という言葉を使っていること自体に疑問を投げかけているのである。明言されていないが、剣道と柔道が同居している中学校の武道教育は、そもそも「武道」の定義を理解しない、「武士道」への真の理解が欠けているままに行なわれているのではないかと指摘しているように思える。「武道」と「武士道」に関する著者の考察は、古くは殺生が繰り返された戦国時代にまで遡り、数々の史料をもとに展開されている。

ことほど左様に、本書では外国人の目から日本の武道、特に剣道について客観的かつ冷静に分析されている。著者はこうした研究ですでに博士号まで取得されている。世界中の人々がなぜ剣道に魅せられ、稽古のためのインフラが十分整っていないような環境でも剣道を学ぼうとするのかという点についても、「武道」や「武士道」が持つ高い精神性に惹かれての行動なのだろう。

それに比べると僕らが普段の試合の勝った負けたで一喜一憂していることのなんと浅はかなことよ。本書を読んで、自分の剣道との向き合い方を猛省させられた。

本書の第1章には、勝者の残心だけでなく、敗者の残心についても述べられている。著者によれば、僕たちはつい勝者の動向を追いがちだが、敗者の構えにこそ残心は問われるのだという。

 武道においては、負けることによってこそ学ぶことは多い。面を打たれた。なぜそこが空いたかを相手は示してくれた。自分の弱点を教えてくれた。これからの稽古でどうやってその弱点を克服するか、修行の課題を与えてくれた。それを糧に自分はさらに強くなれる。より強い自分となって試合に臨める。その思いが「ありがとうございました」という試合後の礼につながるのである。(pp.45-46)

ここ半年ぐらいの間、僕は自分よりもはるかに若い選手と試合をするたびに、そのスピードとパワー、スタミナで圧倒され、出る試合はことごとく完敗を喫してきた。年齢的にそうした若い選手との対戦ばかりが続くので、負けることに嫌気がさしてきていた。負けるのが嫌で、自分がそこそこやれるエイジグループに逃げ込もうとしていた。

でも、本書を読むと、そうした姿勢でいては、長い目で見て自分が成長できないというのも痛感させられた。試合はこれからも続くし、師範からもシニアの部で戦うのは「時期尚早」だと言われている。師範がそうおっしゃる意図も、本書を読んで納得がいった。

すぐに結果は伴わないと思うが、心を静かにして、今後の稽古や試合に臨みたいと思う。
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