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『先生のあさがお』 [南木佳士]

先生のあさがお

先生のあさがお

  • 作者: 南木 佳士
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/08
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
亡きひとたちに支えられ、生きのびて在るわが身…。プールから自転車で帰る途上、田んぼの十字路で出会った女。以前に見た覚えはあるが、名も素姓も想い起こせぬその女にもらった「先生のあさがお」の種。あさがおの先生といえば、四年前に逝ったあの上品な老人しかいないはずだが…。浅間山と八ヶ岳にはさまれた信州の秋景のなかで「わたし」をかたどる記憶のあいまいさに寒ざむと立ちつくす。他者の死に深く関わる医業で疲弊し、自裁の崖っぷちまで追われた身が、ひとや猫や自然に救われ、かろうじて生きのびた、いま。妻と分かちあう平凡で危うい初老の日常を静謚な筆致で描く表題作ほか「熊出没注意」「白い花の木の下」を収録。信州の自然を背景に、ひとの生死のあわいを描く最新作品集。
最近、この本が文庫化されたのを知り、図書館所蔵の単行本の方で代用してみようかと思った次第。

相変わらずの風景描写の凄さである。さすがに芥川賞を受賞するような作家だ。

以前何かの作品でも読んだことがあるような話が続くが、舞台のほとんどが長野県の佐久地方か、佐久と県境を挟んだお隣群馬県の南牧村あたりなので、そこで風景描写を絡めるのだから、そういう印象を持つのは当たり前だ。また、精神科医としての著者の日常世界に近い作品が多いのだから、自ずとそれを取り巻く登場人物は、医療関係者か周辺農民に限られている。同じようなテーストの作品が多くなるだろう。

それでも、一度南木作品に触れると、1年に1冊ぐらいは作品を読んでこの静かな日常を味わってみたいと思ってしまうのだから不思議だ。若い世代の作家さんの作品は斬新なプロットに驚かされることが多いが、表現が粗いと感じることも多い。それに比べると、南木作品の落ち着き、静寂感は貴重だ。

ところで、本書を読みながら、今まで読んできた南木作品とちょっと違うなと感じたポイントもある。本書には比較的長めの短編が3編収録されているが、いずれも主人公が病院勤務で終末期医療を担ってきた初老の医師であるという点で、その主人公の目線から一人称で描かれているのだ。つまり、この3編の主人公は著者自身、いわば本書は著者自身の日常を描いた私小説としての性格が強い。

このため、著者がなぜ精神科医を務める傍らで文筆業を始めたのか、その辺の動機がけっこう書かれているような気がする。

医学校を出たばかりの若造が地方病院の第一線の臨床の医師になり、死にゆくひとたちを目撃し、朝まで飯を食っていたひとが夜には死んでしまうというとんでもない事実に圧倒され、それでもなんとか医者の仕事を続けるためには、圧倒されている「わたし」を書いて誰かに読んでもらえばいいのではないか。そうすればおろおろするばかりの「わたし」は言葉の船に乗り、外海に出て解放されるのではないか。いまだからいくらでもそれらしい理屈はつけられるけれど、とにかくその当時は原稿用紙に向かっているときだけしかじぶんが生きてると感じられなかったのが小説を書き始めた理由です。(p.20)

 2年の研修が終わったら大学病院で放射線科を学び、直接患者は診ずにX線写真やCTの診断レポートのみ書いて過ごしたいと願っていた。生身のひとが病んで死ぬグロテスクでやるせない現場で働き、そこで得た金で妻子を養う生活はわずか1年経験しただけでもう充分だった。それなのに、地方病院におきまりの慢性の医師不足で後任が見つからない理由もあったが、ずるずると居続け、呼吸器科だから肺癌の患者がどんどん入院してきて、診断、治療に追われているうちにいつしか外来も担当するようになり、標準的な肺癌の手術ができる若い外科医に育ててもらうべく病院幹部に依頼したりして退くに退けなくなり、気がつけば年に四、五十人の末期の肺癌患者を看取る立場になっていた。
 そういう生活が破綻したのは、曲がりなりにも穏やかな家庭を営み、一家団欒の夕食の場に自足しているところに病院からの呼び出し電話が侵入し、いきなりひとが死ぬ場に参加せざるを得ない状況を言葉に置き換えて身から押し出そう、引き剥がそうと試みる小説を書き続け、文学賞を受賞した翌年だった。(p.137)

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