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俺の中学時代②-愛車 [趣味]

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小学校から中学校に上がるのは、今もそうだけれど大きな出来事だと思う。ひと言でいえば、行動範囲が広がるのである。僕の育った町では、公立の小学校を卒業すればほぼ例外なく町に1つしかない公立の中学校に進学する。中学校が町の中心にあるのに対し、僕の住んでいた地区は町の最南端にあった。小学校までは徒歩15分程度で通えたが、中学校に通うのは距離的には3倍近くにもなる。徒歩通学は無理なので、当然自転車が必要になった。

小学校6年間を同じ自転車で過ごすのは難しい。成長が速いので、低学年の時に買ってもらった自転車を6年生にもなって乗るのは窮屈だ。そこで僕は母親の乗っていた自転車を使わせてもらっていた。今でいう「ママチャリ」だが、当時は「ミニサイクル」というジャンルすらまだ存在しなかった時代で、オヤジの乗るような自転車で、フレームだけ女性が跨ぎやすいように加工されていた程度に過ぎないものだ。お陰で僕らは「三角乗り」はやらずに済んだ。

ただ、これで中学校に通学するわけにはいかない。だから、中学生の体格に合わせて自転車を新調してもらえることになった。

僕が小学6年生から中学1年生になる1975~76年というのは、ティーンエイジャー向けのスポーツサイクルといえば、ドロップハンドル、トップチューブ上に据え付けられた変速機、そして、高級車になればなるほど、ブレーキランプに時には右折左折のウインカー機能すら付いている後部の「フラッシャー」が燦然と輝いていた。ただ、フラッシャー付きの自転車を学校に乗っていくと、やっかむ先輩方や同級生の餌食になって壊されたり盗まれたりするという噂も小6生の間では広まり、華美なフラッシャーを避けて、それでも他の同級生とどう差別化を図るかは大きな課題だった。

当時の自転車メーカーといえば、ナショナル、丸石、ブリジストン、セキネ、ミヤタ、フジ、ツノダ―――。あいつは何を買ってもらった、自分は別のにしよう…。当然ながら、クラスでいい自転車を買ってもらった奴がいれば、後から買う奴はそれを上回るいい自転車が欲しい。6年生も後半になるにつれて、そんな駆け引きがクラスの中でも繰り広げられ、遂に僕も勝ってもらう日が来た。近所に自転車屋を営む同級生の家があったが、そこに行くとツノダの自転車を買わされるというので、僕は父にせがんで、小学校の校区外でセキネを扱っているお店に連れて行ってもらい、会心の1台を手に入れた。

それがセキネの二番手車種「ガルーダ」のDD5というモデルである。フラッシャーは付いていないという点では大人しいバックフォルムだし、フロントのライトものび太の眼鏡のようだが、この車種の自慢はブレーキ・システムにあり、前輪はオイルディスク、後輪はオイルドラムという、異なるシステムを採用していた。今や前輪も後輪もキャリバー・ブレーキが一般的で、ディスクもドラムも見かけなくなったが、当時はブレーキ・システムは製品差別化の目玉ポイントの1つで、前後輪ともドラムとか、前後輪ともディスクとか、キャリバーとの組合せとか、いろいろあったと記憶している。そこで僕が選んだのは、ディスクとドラムの組合せという奇抜なもので、これはクラス全体を見回しても僕の自転車にしか搭載されていなかった。それが僕の自慢だった。

但し、値段はした。当時の価格で4万7000円。これは相当高価な買い物で、今の感覚でいえば20万円ぐらいの値打ちはあったのではないかと思う。

兎にも角にも自慢の愛車を手に入れ、母屋の裏にあった農機具小屋の一角に大切に格納されたセキネ・ガルーダ号。新車見たさにクラスメート何人かが我が家を訪れた後、それを上回る1台が現れた。近所のクラスメートM君が、セキネの最高車種VX-GTOを買ってもらったのだ。当時の車種の中で最も豪華なフラッシャーをテールに付け、値段は僕のガルーダをさらに1万円近く上回る。誰がどう見ても究極の1台だ。こうして、新車購入競争はM君の後出しジャンケン勝利となり、僕らは小学校卒業の日を迎えたのだった。

ところが、中学校はドロップハンドル禁止だったから、ハンドルバーは上向きに付け替え、フロントにはカバンを入れるための大きなかごが付けなければいけなかった。通学時は安全のためにと、工事作業員がかぶるような白いヘルメットを着用させられ、冬になれば寒風を避けるために、ハンドルに大きなフードを装着した。学生服に白ヘルメット、それでド派手なスポーツサイクルに乗っていた僕らの姿、当時から見てもイケていたとは思えない。フラッシャー付きの高級車を買ってもらったM君がその後どうなったのかは定かではないが、単体の自転車としてのカッコよさとは別に、それにまたがった実際の自分の姿を見た時、自転車に熱を上げることの無意味さを痛感させられる。(お父さん、ゴメンナサイ…)

「俺の中学時代」と銘打っているので、少しぐらい自転車にまつわる中学時代のエピソードを書いておこう。

中1時代の僕は、このガルーダ号というマイバイクをかなり大事に乗っていた。高価だからというのもあるが、もう1つの理由は、近所で高校を卒業して関東の大学に進んだ従兄から別のスポーツサイクルを譲ってもらい、プライベートではこの自転車によく乗っていたというのもある。(実は、この従兄の自転車がもらえるから、中学で自転車を新調しなくてもいいんじゃないかという意見が、父だったか祖母だったかから出されたことがあり、僕はそれは勘弁してくれと粘って、新車購入にこぎ着けたという経緯もあった。この従兄、今や某有名化粧品メーカーの重役です。)だから、通学用にはガルーダ号を使っていたものの、週末はガルーダ号を小屋に格納して従兄のお下がりに乗っていたのである。

ただ、そんな自己規制は徐々に形骸化する。週末を迎える度に友人宅に押しかけたり、クラスの一部の女子とグループでどこかに出かけたりするときは、やっぱりマイバイクでカッコつけたい。いちいち小屋から出し入れするのも面倒になってきて、やがてガルーダ号一辺倒になっていった。

そのうち、よそ見していて電柱や停車中のトラックにぶつかったり、側溝に突っ込んだりして、僕の体も生傷が絶えなかったが、自転車の傷も増えていった。中学卒業して高校に進学すると、今度もまた30~40分は通学で時間がかかる高校で、後ろのキャリアの横に学生カバンを収納できる折り畳み式のかごをさらに増やし、ますます「スポーツ」から遠のいていった。それでも、冬場に山から吹き降ろして来る向かい風の中家路につくときは、変速機の良さを随分と感じたものだ。高校入学時に剣道のマイ防具を買ってもらったので、対外試合のときはキャリアに防具袋を縛り付けて会場に出かけた。ますますスポーツサイクルっぽくない。

高校卒業して東京の大学に進学したときも、引越荷物にこのマイバイクは含まれてはいた。大学時代もしばらくは乗っていた記憶があるが、いつだろうか、多分米国留学を前にいったん全ての家財道具を実家に送り返した際に、マイバイクも岐阜の実家に運ばれていったのだろう。その後どうなったのか、今度里帰りしたときに両親に聞いてみたい。

「俺の中学時代」シリーズ、今回は第2弾だったが、実は誤って第1弾のBCLの回に被せてこの記事を書いてしまった。そのうちもう一度BCLについては取り上げたいと思う。
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