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『国語のできる子どもを育てる』2 [読書日記]

国語のできる子どもを育てる (講談社現代新書)

国語のできる子どもを育てる (講談社現代新書)

  • 作者: 工藤 順一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/09/20
  • メディア: 新書
まだ、本書の紹介にまでは至らない、僕自身の体験談(自慢話)が中心になるが、ご容赦下さい。

作文力は身を助ける―――僕がそれを痛切に感じたのは大学受験の時のことだ。

僕の第一志望校では、英語(筆記)、小論文、英語(面接)の3科目が、足かけ2日間の日程で行なわれた。1981年11月のことだ。初日に英語(筆記)と小論文、2日目に英語(面接)が行なわれた。志望の学科が英語で、超難関といわれていたところだったので、赤本とかで準備をやっている時から、英語の筆記試験についてはまったく手も足も出なかった。点数を稼ぐ自信がまったくなかったのだ。面接の方は2年かけて準備してきていたのでそこそこ普通にやれるだろうとは思っていたが、ここを志望してくる他の生徒並みにというレベルに過ぎない。

初日の英語の筆記試験、予想以上にひどい出来だった。例えば、「この文章で使われているこの単語と同じ意味の単語を、次の4つの中から選べ」という問題が出たとする。本文で使われている単語も初めて見たが、選択肢で4つ挙がっていた同義語の候補が、全て見たこともない英単語だった。正直なところ、これでもう自分は落ちるに違いないと覚悟した。

その後の小論文。出題されたテーマは、「過去1年間に内外で起こった出来事を1つとりあげ、その概要を説明し、自分が考えたことを述べよ」というものだった。

この志望校の小論文対策は過去問がないため、僕はほとんど準備をしていなかった。ぶっつけ本番だったにも関わらず、僕は思いの外上手く小論文が書けた。取り上げたテーマは「名古屋五輪招致失敗について」。そして、その論点は、「日本人は、成功確率が高い場合は必ず成功するとたかをくくって、失敗しないための備えをまったく怠ってしまう傾向がある」というものだった。

同じ試験で合格して大学に一緒に入学した連中に聞いてみたところ、小論文で苦戦したという奴は意外と多かった。取り上げたテーマも、「王貞治選手の引退」ぐらいしかすぐに思い付かなかったとか…。

そう、結果的に、僕を救ったのは小論文の出来だったと今でも思っている。
では、なぜこんな「火事場のバカ力」のようなことが可能だったのか。

最大の理由は、書くこと自体に相当慣れていたことだろう。今はブログのような形に置き換わっているが、そんなものはない1980年代初頭、僕は手書きの日記をかなりまめにつけていた。しかも、毎日自分が何をやったのかを記録するのではなく、自分が考えたことを書き綴っていたのだ。その量たるや、1年で日記帳1冊のペース。毎日つけていたわけでもない。1回で2、3ページも書いたこともある。自分が考えたことだといっても、その当時の時事問題を取り上げていたわけではない。テスト勉強の準備をはじめるのに、自分のどこが弱いか、それを克服するのにどういった勉強をするのか、言わば「有言実行」のための目標を自分なりに記録に残しておくようなことをしていたのだ。

もちろん、「有言」しても「実行」されなかったこともある。当時好きだったクラスメートに、どういったシチュエーションでどう声をかけ、どこに連れて行ってどう自分の気持ちを伝えるのかというシュミレーションは、まったく役に立たなかった(笑)。「実行」しても結果が伴わなかった部活動というのもあった。だから、今読み返すと相当に恥ずかしい内容になっている。

こうした日記に飽き足らず、僕は受験勉強の合間になんと野球小説まで書いていた。他人に見られると恥ずかしいので、高校を卒業して東京に出てくる前日に、全部燃やしてしまったが、これが結構な大作で、高校3年間をフルに使って、ある高校の野球チームが経験を積み重ねて徐々に強くなっていき、主力メンバーが3年生になった夏、甲子園に出るところまでを書いたのである。

こうした、書くことに対する動機付けをしてくれたのは、高校1年の時の現代国語のG先生だったと思う。分厚い現国の教科書にもとづく授業はほどほどに、毎回授業開始直後の最初の15分ほどを使って、生徒に作文を披露させた。字数制限はなかったが、たいていの生徒は自由テーマで原稿用紙2、3枚程度の作文を書き、それをクラスで朗読させられたのだ。僕を含めた多くの生徒が、思い出話や本の紹介を書いていたが、中にはツワモノもいて、ショートショートどころか、原稿用紙10枚近くにも及ぶ、堂々たる小説を書いてきた奴もいた。(当然、現国の授業は丸つぶれだった(笑))

こうした作文朗読が良かったのは、もちろん自分自身の作文の練習になったということもあるが、他の生徒の作文に触れることができたことだ。中には本当に上手い作文を書くクラスメートもいたので、そういう人の文章を聴きながら、自分もこれくらいのものが書けるようになりたいと切に願った。また、そこで星新一や安部公房を知り、彼らの作品を片っぱしから読んだのだった。

こうして、僕は高校3年間、書くことには相当な時間を費やしてきた。

小論文がうまく書けた第2の理由は、僕が意外と新聞をよく読んでいたことにあると思う。僕は岐阜県に住んでいたので、1980~81年当時、「名古屋五輪招致」は新聞、テレビで連日報道されていた。地元マスコミのトーンは「全然楽勝」だったので、ソウルに五輪を持って行かれたという報道を最初に耳にした時、「え?」と耳を疑ったのをよく覚えている。

僕の新聞へのエントリーポイントは中日ドラゴンズの試合の結果であり、中日新聞で先ず読むのはスポーツ面だった。僕はスポーツ面だけなら小学生高学年の頃から中日新聞を読んでいた。そうした動機はどうあれ、新聞には手を伸ばしていたのだ。そして、たまたまとはいえ、ソウルに五輪開催を持って行かれた後、スポーツ面のコラムに書かれていた「敗因分析」を読んでいたのである。今だから認めるが、僕が大学入試の小論文で書いた論点の一部は、こうしたコラムからの受け売りだった。

どのようなエントリーポイントでも構わないが、高校時代から新聞に触れておくことは身を助ける。もちろん、もっと早くから新聞を読むのはいいことではあると思うが、高校からでも遅くはない。小論文対策など小手先のテクニックではなんともならないので、ふだんからインプットとアウトプットを両方ともしっかり経験しておくしかない。

好きこそものの上手なれ―――。

子どもたちに「あれやれ、これやれ」とは言わないが、今の自分があるのは、高校時代の過ごし方にあったと思うので、自分の体験談としてここに記しておく。


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