93歳の独居老人 [旅行]
先週中米に出かけた際、帰路の経由地ヒューストンに到着したのが16日(土)夕方4時で、そこから成田行きのフライトへの乗り継ぎまで経由地で1泊しなければならなかった。18時間ほどの滞在時間があったので、思いきってヒューストンの街を離れ、隣りのルイジアナ州在住のラルフ・カウエンさんに会いに行ってみることにした。
1月にインドのゴカレ博士の訃報を聞いて以来、僕はあらゆる機会を捉えて、高齢の知人にはなんとか一度お目にかかりたいと考えていた。カウエンさんもその1人で、もう90代半ばを迎えておられる筈だった。奥様は既に2008年12月にお亡くなりになっていたが、カウエンさんご本人はルイジアナ州南部の米作地帯の名士として、昨年8月に新聞記事で写真入りでご健在ぶりが紹介されていた。
ヒューストンから電話を入れ、「Sanchaiです」と伝えたところ、「誰だか知らない」と言われてしまった。少し話していくうちに、昔国際ロータリーの地区ガバナーを務めておられた1985/86年に、バトンルージュのルイジアナ州立大学(LSU)に1年間留学に来た日本人学生であることを思い出して下さった。電話で話すのも2005年のハリケーン「カトリーナ」の災害の時以来だったので、声やしゃべり方で僕を思い出していただくのに時間がかかったのは仕方のないことだ。
こうして昔の住所に今もお住まいであることが確認できたので、僕は空港でレンタカーを借りて、ルイジアナ目指して移動を開始した。
昔走ったことのある懐かしいハイウェイを東へとひた走り、カウエンさんの住む町に着いたのは夜8時。何度か玄関の呼び鈴を鳴らしたが、なかなか出て来て下さらない。もしかしたらと思って裏口に回ってみると、歩行器を押しながらゆっくりゆっくり歩き、裏口から手紙を回収しておられたカウエンさんと遭遇、挨拶して中に入れてもらった。
言葉はしっかりしておられたので、現在の生活の様子をいろいろとうかがった。93歳になられたカウエンさんは、今も元気でおられるが、足腰は弱くなってしまったので歩行器を利用している。4人のお嬢さんがいらっしゃるが、いちばん近くにいる2人はいずれもヒューストン在住だという。老人ホームへの入居を勧められているが、僕のように昔の住所と電話番号で連絡してくる人もいるので、できるだけ自宅で暮らしたいと思い、ホーム入居しなかった。広い家の清掃は、週1回、月曜日に家政婦さんに来てもらっている。今でも日産の乗用車を運転し、郊外のスーパーマーケットに買い出しに出かける。
朝6時に起床すると、先ず日課の朝シャワーを浴び、ドーナッツ1きれと、カフェイン抜きのコーヒーを1杯飲む。お昼は近所のケアハウスに出かけ、知人とのランチを楽しむ。毎週水曜日のお昼に開かれている地元のロータリークラブの定例昼食会には今でも出席しているという。夜は日によるが、僕が訪ねた日はピザを1きれだけ食べた。夜は早めに就寝する。以前は「フリッツ」という名前のシェパード犬を外で飼っておられたが、今は室内で猫が闊歩している。
家の中の調度品、蔵書のたぐいは2003年10月に最後に僕が訪ねた時と大して変わらない。むしろ額に入れられた写真は増えたという印象がある。キャサリン夫人の遺影だけでなく、娘の家族、孫の家族が2、3年に1回、クリスマスのシーズンに勢揃いし、氏の健康長寿を祝っている家族写真とかが沢山増えたような気がする。
翌朝は10時前に空港でチェックインする必要があり、僕は4時30分に起床して身支度を整えた。「5時に起こせ」と言われ、僕はカウエンさんの寝室のドアをノックした。返事もあったし照明も点いたのですぐに部屋を出て来られるのかと思って待機していたが、20分、30分と経過してもなかなか起きて来られない。さすがに不安になって再度ノックして氏を呼んだ。5時40分、ようやく部屋をゆっくりゆっくり出て来られた。こういうところはやはり歳をとられて時間もかかるということなのだと思う。無事でなによりであった。
5時50分、お別れの時が来た。
「また来なさい」――当然ながらそう言われた。「私もそう長くはない。家族を連れてくるなら早い方がいい」と。
でも、僕もそうそう頻繁には再訪できない。最後の訪問から10年近く経って、ようやく次の訪問も実現したのだ。多分お目にかかれるのはこれが最後であろう。そして、カウエンさんもなんとなくこれが最後だとわかっておられたのだろう。目に涙を浮かべておられたのが印象に残っている。
帰りのヒューストンへの道は、寂しさにかられながら、静かなドライブとなった。僕の連絡先、住所、電話番号、メルアドは、メモにして置いてきた。カウエンさんに何かあれば、僕にも連絡は入ることだろう。
1月にインドのゴカレ博士の訃報を聞いて以来、僕はあらゆる機会を捉えて、高齢の知人にはなんとか一度お目にかかりたいと考えていた。カウエンさんもその1人で、もう90代半ばを迎えておられる筈だった。奥様は既に2008年12月にお亡くなりになっていたが、カウエンさんご本人はルイジアナ州南部の米作地帯の名士として、昨年8月に新聞記事で写真入りでご健在ぶりが紹介されていた。
ヒューストンから電話を入れ、「Sanchaiです」と伝えたところ、「誰だか知らない」と言われてしまった。少し話していくうちに、昔国際ロータリーの地区ガバナーを務めておられた1985/86年に、バトンルージュのルイジアナ州立大学(LSU)に1年間留学に来た日本人学生であることを思い出して下さった。電話で話すのも2005年のハリケーン「カトリーナ」の災害の時以来だったので、声やしゃべり方で僕を思い出していただくのに時間がかかったのは仕方のないことだ。
こうして昔の住所に今もお住まいであることが確認できたので、僕は空港でレンタカーを借りて、ルイジアナ目指して移動を開始した。
《テキサス・ルイジアナ州境のツーリストインフォメーションセンターでトイレ休憩中》
《インターステート10号線を東へひた走る》
昔走ったことのある懐かしいハイウェイを東へとひた走り、カウエンさんの住む町に着いたのは夜8時。何度か玄関の呼び鈴を鳴らしたが、なかなか出て来て下さらない。もしかしたらと思って裏口に回ってみると、歩行器を押しながらゆっくりゆっくり歩き、裏口から手紙を回収しておられたカウエンさんと遭遇、挨拶して中に入れてもらった。
言葉はしっかりしておられたので、現在の生活の様子をいろいろとうかがった。93歳になられたカウエンさんは、今も元気でおられるが、足腰は弱くなってしまったので歩行器を利用している。4人のお嬢さんがいらっしゃるが、いちばん近くにいる2人はいずれもヒューストン在住だという。老人ホームへの入居を勧められているが、僕のように昔の住所と電話番号で連絡してくる人もいるので、できるだけ自宅で暮らしたいと思い、ホーム入居しなかった。広い家の清掃は、週1回、月曜日に家政婦さんに来てもらっている。今でも日産の乗用車を運転し、郊外のスーパーマーケットに買い出しに出かける。
朝6時に起床すると、先ず日課の朝シャワーを浴び、ドーナッツ1きれと、カフェイン抜きのコーヒーを1杯飲む。お昼は近所のケアハウスに出かけ、知人とのランチを楽しむ。毎週水曜日のお昼に開かれている地元のロータリークラブの定例昼食会には今でも出席しているという。夜は日によるが、僕が訪ねた日はピザを1きれだけ食べた。夜は早めに就寝する。以前は「フリッツ」という名前のシェパード犬を外で飼っておられたが、今は室内で猫が闊歩している。
家の中の調度品、蔵書のたぐいは2003年10月に最後に僕が訪ねた時と大して変わらない。むしろ額に入れられた写真は増えたという印象がある。キャサリン夫人の遺影だけでなく、娘の家族、孫の家族が2、3年に1回、クリスマスのシーズンに勢揃いし、氏の健康長寿を祝っている家族写真とかが沢山増えたような気がする。
《リビングルームの様子。蔵書数は半端じゃない。》
《1989年3月を皮切りに、僕が訪問するたびに泊めていただいたゲストルーム》
翌朝は10時前に空港でチェックインする必要があり、僕は4時30分に起床して身支度を整えた。「5時に起こせ」と言われ、僕はカウエンさんの寝室のドアをノックした。返事もあったし照明も点いたのですぐに部屋を出て来られるのかと思って待機していたが、20分、30分と経過してもなかなか起きて来られない。さすがに不安になって再度ノックして氏を呼んだ。5時40分、ようやく部屋をゆっくりゆっくり出て来られた。こういうところはやはり歳をとられて時間もかかるということなのだと思う。無事でなによりであった。
5時50分、お別れの時が来た。
「また来なさい」――当然ながらそう言われた。「私もそう長くはない。家族を連れてくるなら早い方がいい」と。
でも、僕もそうそう頻繁には再訪できない。最後の訪問から10年近く経って、ようやく次の訪問も実現したのだ。多分お目にかかれるのはこれが最後であろう。そして、カウエンさんもなんとなくこれが最後だとわかっておられたのだろう。目に涙を浮かべておられたのが印象に残っている。
帰りのヒューストンへの道は、寂しさにかられながら、静かなドライブとなった。僕の連絡先、住所、電話番号、メルアドは、メモにして置いてきた。カウエンさんに何かあれば、僕にも連絡は入ることだろう。
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