『哲学する民主主義』 [読書日記]
哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造 (叢書「世界認識の最前線」)
- 作者: ロバート・D. パットナム
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2001/03
- メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)ロバート・パットナムといったら、数年前に訳本が出版され、まちづくりをテーマに活動されているNGOや市民活動家、社会学者などの間で話題になった『孤独なボウリング』の著者として有名である。『孤独なボウリング』は機会があったら読んでみたいと思っていたが、それがかなわぬうちに、ひょんなことからパットナムの別の著書を読むことになった。
本書は、イタリアにおける州の研究を通じて、イタリア人の市民生活に関する根本的な疑問のいくつかを検討する。具体的にはイタリアの地方政府の公共政策におけるパフォーマンスを比較分析することで、高い地域にはそれなりの伝統、つまり市民的政治文化があり、結局のところそれがパフォーマンスを上げているとの結論にたどりつく。パフォーマンスの高い地域とされた、中部イタリアには数百年に及んだ共和政の伝統があった。北部イタリアはフランスやオーストリアの勢力に翻弄されることが多く、共同体主義が発達しなかったし、ローマ以南の地域では何世紀にもわたる征服王朝による封建的土地所有が地域社会の基礎にあったため、その根本に不信があるという。著者は、共同体主義の伝統がない地域では政治の改革は深まらないと指摘する。
本書は原題は「Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy(民主主義を機能させる:近代イタリアにおける市民の伝統)」という。なぜそれが「哲学する民主主義」になったのかはわからない。「イタリア」が原題に出て来てしまうと、読者が中味を見ないで勝手に選別してしまい、読まれなくなる恐れがあると編集者が察したのかもしれない。
僕も、最初に「イタリア」と聞いた時、なんで今さらイタリアなのかと考えてしまった。しかし、高校の世界史で19世紀のガリバルディによるイタリア統一あたりまでちゃんと勉強した人にとっては、イタリアという国が南北に長細い国土の中で、大きな南北格差を抱えているという点については覚えておられる方もいらっしゃるんじゃないだろうか。職場の勉強会で本書を読もうと提案された際、最初は気が進まなかったのだが、序章を読んでいるうちに、この本は相当面白いのではないかと気付き、単にイタリアの話というのにとどまらず、途上国に「民主主義」という制度を一様に持ち込んでもうまく機能する国としない国があるのはどうしてかとか、世界最大の民主主義国家を標榜する南アジアの某大国にある南北間の発展格差もソーシャルキャピタルでどの程度説明できるのかとか、本書を起点としてその先いろいろな考察に発展していけそうな気がする。
本書は、民主的諸制度のパフォーマンスに関する僕達の理解に資することを目的として書かれた。イタリアでは1970年に州制度が創設され、70年代に15の州ができた。しかし、その社会、経済、政治、文化の文脈は、州によって異なっていた。同じ制度を全国的に導入した場合でも、制度がうまく機能するケースと機能しないケースがあるのはなぜなのか―――本書では、先ず「制度が政治を規定する」という、制度を独立変数と見立てた仮説を立てた。即ち、制度の変更が、政治アクターのアイデンティティ、権力、戦略にどのような影響を及ぼしたのかを実証的に検証した。そして、次に「制度は歴史によって形成される」という、今度は制度を従属変数に見立てた仮説を提示している。
こうしてイタリアの州政府の公共政策におけるパフォーマンスを比較分析することで、パフォーマンスのいい地域にはそれなりの伝統、つまり市民的政治文化があり、結局のところそれがパフォーマンスを引き上げているとの結論に辿り着く。パフォーマンスがいい中部北部イタリアには数百年にわたる共和政の伝統があったのに対し、ローマ以南の地域では何世紀にもわたって征服王朝(主にシチリア拠点の)による封建的土地所有が地域社会の基盤になっていたため、その根本に不信があり、共同体主義が発達しなかったという。このことが政治の改革にも繋がらず、州政府のパフォーマンスには中部・北部>南部のようなおおよその構図でバラつきがあるのだという。
勿論、20年間という調査期間のうちに、州制度は根を下ろし、自律性を獲得し、選挙民の支持も獲得した。全国的に見ても、遠いローマの中央官庁よりも、州政府の方が州民の実態をよく承知しており、州民の要望に対して機動的に応じられるようにはなったと評価できる。しかし、全体的な底上げも、州間での制度パフォーマンスは、昔から言われていた南北間の格差を、和らげるどころか拡大させた感があるという。
ちなみにこの「制度パフォーマンス」だが、本書は次の12の指標を用いている。
(1)政策過程(内部問題の管理):①内閣の安定性、②予算の迅速性、③統計情報サービス
(2)政策表明(決定の内容):④改革立法、⑤立法でイノベーション
(3)政策遂行:⑥保育所、⑦家庭医制度、⑧産業政策の手段、⑨農業支出の規模、
⑩地域保健機構の支出、⑪住宅・都市開発、⑫官僚の応答性
ではなぜ南北イタリアの間で制度パフォーマンスに差が生じたのだろうか。著者は、それが市民の積極的な参加の差にあるという。そして、①優先投票の度合い、②国民投票への参加度、③新聞購買率、④結社数の4つの指標から「市民共同体指数」を算出し、南北比較を行なった。その結果、北部州では指数が高く、住民は互いを信頼し、公正に行動し、法令順守の意識が強いという。政治的平等感があって、社会的政治的ネットワークは水平的だ。これに対し、南部州は指数が低い。「市民」概念そのものの発達が阻害され、公共の福祉を皆で良くしていこうという行動も存在しないという。社会的政治的ネットワークは垂直的だ。制度パフォーマンスが、元々あった経済発展のパフォーマンスか「市民度」かどちらの影響を強く受けるのかも検証されたが、市民度の影響が大きいという。経済的な先進州の政府が他に比べてうまくいっているように見えるのは、それらの州がたまたまより市民的だということに過ぎないのだという。
こうした市民の積極的な参加の有無は何に由来するのだろうか。著者はそれを、1000年も続いてきた伝統によるものだと主張する。20世紀後半に市民的関与が花開いた州は、19世紀には既に協同組合や文化団体、相互扶助協会の豊かさで抜きん出ており、12世紀には近隣組織、宗教団体、同職組合がコムーネ共和制(市民性の開花)に一役買っていた地域と正確に重なる。つまり、現代の北イタリア諸州における比較的良好な民主政治の制度パフォーマンスは、市民の自発的な協力を促す信頼・互酬性の規範や市民の積極参加のネットワークといったソーシャル・キャピタルが蓄積されているのだという。市民的伝統と経済とのこの連関性は、イタリアだけではなく、地球的規模での南北間の発展の不均衡についての論議にも新たな光を投げかけると著者は言う。
さらに、著者は、この南北イタリアで見られる伝統の違いが、どのようなメカニズムを通じて生み出されたのかも考察する。集合的解決を図る長い歴史と経験がある地域では、新たな問題に直面した場合、それまでに蓄積してきた相互信頼、相互扶助を基盤に新たな解決策を考案できる(水平的解決)。一方、市民度の低い州では、嘆願という垂直的解決の方法が模索される程度である。つまり、市民の積極参加の規範と実際の市民ネットワークというソーシャル・キャピタルが欠ける南イタリアのような地域では、集合行為のジレンマから抜け出すことが難しいと説明する。
さて、本書を読んだ感想だが、読んでみてちょっと複雑な心境に陥った。
第一に、1000年にもわたる歴史が制度パフォーマンスを規定するのだとしたら、南北の格差は容易には縮まらないのだということを言われてしまった感があること。逆に言えば、南であっても市民共同体指数を引き上げるための取組みが行なわれれば制度パフォーマンスも、ひいては経済パフォーマンスも良くなることを本書は示唆するが、1000年かかっても市民共同体が十分形成されなかった南部で、そんなに簡単に市民共同体が形成されるとは考えにくい。
第二に、市民度って右肩上がりなのかという疑問である。例えば、現在の欧州経済危機は、ギリシャ債務問題から波及して、スペインやイタリア国債価格の下落にも繋がり、製造業で発展してきた北イタリアにもショックをもたらしている。下記報道で焼身自殺が報じられたボローニャとヴェローナは、それぞれエミーリア・ロマーナ州、ヴェーネト州という、本書でいえば北部州に入る。経済危機のような大きな外的ショックが起きた場合、北イタリアの市民度にも大きな傷がつくのではないかと何となく危惧する。
第三に、州単位といった、割と「マクロ」なところで、「ソーシャル・キャピタル」という言葉を用いていることへの違和感である。「ソーシャル・キャピタル」って、いろいろな論者がいろいろな文脈で用いていて、きちんとした定義があるようでないような印象を受ける。僕が漠然と持っていた「ソーシャル・キャピタル」のイメージは、都市と農村でも違うものだし、大都市と地方都市でも違うものだということで、それに比べると「州」というのは分析の単位としてちょっと大きいなという気がしてしまう。
いずれにしても、「なんだ、イタリアの話か…」と言う前に、騙されたと思って読み進めてみるととても面白い本だというのは間違いない。これを読んだら、『孤独のボウリング』もいずれ読んでみたいなと興味をそそられた。
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