SSブログ

『科学的とはどういうことか』 [読書日記]

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

  • 作者: 森博嗣
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/06/29
  • メディア: 新書
内容紹介
科学的無知、思考停止ほど、危険なものはない!
「横行する非科学に騙されるな!」 元・N大学工学部助教授の理系作家による科学的思考法入門。
科学――誰もが知る言葉だが、それが何かを明確に答えられる人は少ない。しばしば「自然の猛威の前で人間は無力だ」という。これは油断への訓誡としては正しい。しかし自然の猛威から生命を守ることは可能だし、それができるのは科学や技術しかない。また「発展しすぎた科学が環境を破壊し、人間は真の幸せを見失った」ともいう。だが環境破壊の原因は科学でなく経済である。俗説や占い、オカルトなど非科学が横行し、理数離れが進む中、もはや科学は好き嫌いでは語れない。今、個人レベルの「身を守る力」としての科学的な知識や考え方とは何か。
気が付けば、読了しているのにブログにアップしていない本が5冊にも及んでいる。最近は極力2日おきの掲載ペースを維持しているが、前回の記事はその4日前にいったんアップしたものに書き足しただけのもので、今週に入ってから実質的には何も書いていないに等しい。

先週来、仕事の上で「科学的」であるというのはどういうことなのか、考えさせられる出来事があった。別の部署の人から、「実用的」であることとの対比で「科学的」という言葉を使われ、実用的な研究成果なら受け入れるが科学的な研究の成果にはあまり興味がないという趣旨のことを言われたのである。アカデミックな小難しい研究論文よりも、我々にとって研究成果がどのように役に立つのかを具体的に示してほしいと…。事業の新しい実施方針をサポートするような証拠(エビデンス)を、具体的なデータとその分析をもとに示すのこそ科学的な研究だと思うが、現場サイドも承知していないような新たなアイデアが研究をやることでポンと出てくるようなものをイメージされて、それが何かを研究を始める前から具体的に示せと言われても、どう答えていいのかわからない。全ての研究がそんなに華々しいものだというわけではない、僕はそう思う。

冒頭、著者はこう述べている。今の若い人たちは、どちらかというと自然を愛するナチュラル指向で、スローライフに憧れている。昔の若者たちの世代に比べて、科学的には後退しているのではないかとすら思える。大勢の人が非科学的な思考をすれば、それが明らかに間違っていても、社会はその方向へ向かってしまう。何だかよくわからないものは避けて手っ取り早く結論を知りたい、そんな風潮で科学が指向されにくくなってきていることに大きな危惧を抱いたというのが著者の問題意識だ。

これに類する主張を、今週月曜日の日経新聞の編集委員コラムで見かけた。コラムが手元にないので趣旨を正確に伝えるのは困難だが、経済成長を指向してシャカリキにいかなくとも、ほどほどでいいではないかという風潮に対する危機感を吐露した内容だったと記憶している。これについては僕も反省するところはあって、人口が減少する「定常化社会」を迎えた日本で、成長戦略、成長戦略というのはどうかと、しらけた目で見ていたのは僕も同じだった気がする。勿論、成長戦略といいつつ、単に今ある技術や製品で新たな市場を海外で開拓しようというだけの話が多いような印象は拭えなくて、それよりももっと重要なコアな技術開発力をどう高めるのかという点を考えないといけないとは思ってはいる。

ただ、高い技術力を維持発展させられるのかという点では、僕はどちらかというと「アラフィフティに期待などするな」という世代であり、ガンダムに憧れる子供達の世代に勝手な期待を抱くところはある。文系よりも理系に進んで欲しいと我が子には期待している。
科学を無視していると、それは確実に不利益を招き、危険も大きくなる。気持ちの問題ではなく、もっと現実的、物理的、つまり科学的に「しっぺい返し」を食うだろう。ここが(宗教を信じないこととは)まったく違う。何故なら、現代社会は、古代から中世のように宗教の上に築かれているのではなく、既に完全に科学の上に成り立っているからだ。この認識を現代に生きている人たちはもたなくてはいけない。(p.191)
僕自身が科学的思考を伸ばすのには今からでは限界もあるが、子供達には、アニメや特撮の世界でだけではなく、科学的思考を伸ばしていって欲しいと期待する。

個人的に本書でいいなと思ったのは、第3章「科学的であるにはどうすれば良いのか」で書かれている次の記述であった。
「科学」では、1人の研究者がいくら実験結果を報告しても、それで仮説が完全に証明されたとは考えない。別の人が実験をして同じ結果になることを報告し、そういった結果が複数出たところで、ようやく「確からしい」という認識になるのである。(p.134)
この記事の冒頭で、社内で実際にあった禅問答のようなやり取りについて紹介したが、この、科学の慎重さに関する本書の記述にはとても惹かれた。そう、1つの研究成果だけをもっても仮説が完全に証明されたとは言い難い、同じデータセットを使って別の人が同じ分析をやってみたら同じ結果が出たというところを重視せねばならないので、1つの研究だけで華々しい提言ができるという代物ではないと思うのである。

さて、僕はこの著者の本を読むのは今回が初めてだったが、あとがきにあった「本書は3日間、合計12時間で書き上げた」という記述を見て、正直言ってありがたみが相当に失せた。ご本人は嫌がる言い方だろうが、この著者は相当な多作で、斎藤孝を理系にしたような感じかなと思った。中味がスカスカだというつもりはなく、それなりに主張は明確で中味も詰まっていると思うのだが、やっつけ仕事に見えてしまうので、裏事情を詳らかにするのは正直やめて欲しかったなと思う。それに、手っ取り早く結論だけを知りたいという輩に対して否定的な見解を述べている割に、本書の各章末には「まとめ」と称した1節が挿入されており、手っ取り早く結論を知りたいという人向けの工夫がなされているのはどういうことなのだろうかと突っ込みも入れたくなった。

印税で相当食っていける人らしい。本を1冊書くのが夢だという人が圧倒的に多い中で、既に実績を上げている人は放っておいても本の話が舞い込んで来て、それをやっつけ仕事でこなしているというのは、「著者名だけでも売れる」という出版サイドの思惑もあるのだろうが、なんか悔しい。

タグ:森博嗣 研究
nice!(3)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 1

宇宙恐竜ゼットン

専門家の、平行線をたどる議論を無理やり打ち切って、原発を再稼働させるのも、相当「非科学的」だと思いますが…
by 宇宙恐竜ゼットン (2012-02-09 19:44) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0