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『海の帝国』 [読書日記]

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

  • 作者: 白石 隆
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2000/09
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
「海のアジア」、それは外に広がる、交易ネットワークで結ばれたアジアだ。その中心は中国、英国、日本と移ったが、海で結ばれた有機的なシステムとして機能してきた。世界秩序が変貌しつつある今、日本はこのシステムとどうかかわっていくべきか。二世紀にわたる立体的歴史景観のなかにアジアを捉え、シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイを比較史的に考察する。第一回読売・吉野作造賞受賞。
読了してからあまりにも時間を開け過ぎると、何が書いてあったか思い出すのが大変だ。本書は、最初は市立図書館で何の気なしに借りたものだが、読み進めるにつれて徐々にその良さに気付き始め、できれば1冊我が書斎の蔵書に加えてマーカーで所々に線を引き、必要な時に何度か読み返せるようにしたいと考えた。そこでアマゾンを通じて中古品を1冊注文し、1週間前に入手もしたのだが、何しろ先々週から先週にかけてはあまり気持ちの余裕がなく、1つ1つの読書日記を相当突っ込んで書けるような状況ではなかった。三連休に入ってから落ち着いて書こうとも思ったが、最初の2日は日中外出する時間が多くて、図書館で借りていた本で付箋を貼っていた箇所について、購入した同じ本にマーカーを引っ張る作業ぐらいはなんとかできたものの、次の作業に向えない状況の中で連休最終日の早朝を迎えている。入力開始は午前5時。目覚まし代わりにキーボードを叩いている感じだ。

ここ1年数ヵ月、僕が仕事上関わっているテーマをキーワードで示すとしたら、「民族多様性」、「ASEAN・東南アジア」、「イスラム」、「ポスト・コロニアリズム」といったところだろうか。地域的に見るとアフリカとか東南アジアということになるのだが、いずれも僕にとってはあまり縁のなかった地域であり、テーマもこれまであまり突っ込んで考えてみる機会もなかった。それを僕が元々フィールドにしていた南アジアに当てはめてみるとかしてお茶を濁したりしていたのだが、そろそろ東南アジアと正面から向き合った方がいい時期に来ているような気がした。

本書の冒頭で、著者はこう述べている。
本書においてわたしの試みたいことは、アジアを文明、風土といったなんらかの安定した構造としてではなく、歴史的に生成、発展、成熟、崩壊するひとつの地域システムと捉えること、そしてそうした地域システムとしてのアジアの成り立ち、そこにおける日本の位置を、普通われわれが行なうよりももっと長い時間の幅で考えてみることにある。(p.i)
この引用の後半部分は別として、前半部分はアフリカにおける民族の多様性、言い換えれば「民族」の捉え方の多様化の進展とも共通する部分はあり、静的で安定性の高い地域システムではないという点ではアフリカでも東南アジアでも同じような状況であることはわかった。

しかし、そうした共通点とは別に、異なる点もある。僕が勝手に解釈すると、国境線の確定の程度なのかなと思う。アフリカの国境は植民地経営を行なっていた欧米諸国が植民地を手放す時に便宜的に決めてしまったもので、国境を越えて複数国に跨って居住している民族がいるような状況を招いている。一方、元々東南アジアは海に面した都市を中心に発展してきたので、国境という概念がそもそもなかった。

本書では、こうした東南アジアの地域の捉え方を「まんだら」と表現している。
東南アジアは歴史的にそういった港市や人口の集住地があちらこちらにあって中心となる「多中心」の地域だった。そうした港市、人口の集住地にカリスマ的な「力」をもつ人物が現れ、これが「王」となってマレー世界のヌガラ、タイ世界のムアンなどと呼ばれる「国」を建てた。そうした「王」のなかからやがて並外れた「力」をもつ者が現れ、「大王」として「王」たちに号令を掛けるようになると、このとき「帝国」が成立した。東南アジア史の泰斗、オリヴァー・ウォルタースは、こうした東南アジアに固有の政治システムを「まんだら」システムと呼ぶ。まんだらとは「王たちの輪」の意味である。(pp.45-46)
しかし、この「まんだら」システムは、我々がいう国家(近代国家)とは別の代物だという。第1に、近代国家は国境によって定義されるが、まんだらシステムは中心によって定義され、各地の大王を中心に地場が形成され、周辺の王たちとの間にひとつの秩序が形成されているという。まんだらシステムには国境はなく、内政と外交の区別もなく、この地場も大王から投射される磁力が強ければ拡大し、弱ければ収縮するのだという。第2に、大王と王、王と家臣の関係は、親族、婚姻関係などの社会組織に埋め込まれており、近代国家が持つ官僚組織のような支配・統治機構とはまったく別物だったという。

歴史的にそんな環境にあった東南アジアに近代国家が外から持ち込まれたのは19世紀のことで、ラッフルズによる自由貿易帝国プロジェクトに始まり、20世紀初頭の文明化のプロジェクト、米国の「自由アジア」プロジェクトによって、アジアの地域秩序が作られてきた。著者によれば、こうしたプロセスにおいて、近代国家の編成・再編成が鍵となっており、さらには資本主義がアジア地域秩序形成のエンジンとなったのはごく最近、日本を先頭とする東アジアの雁行型地域発展が語られるようになってからのことだと述べている。(p.175)

そうした地域観からすると、1997年のアジア通貨危機に端を発した東南アジアの混乱は著者の眼にはどのように映るのだろうか。本書は2000年に書かれたものだが、ここで書かれていることは今の東南アジア各国を見る際にも示唆に富んでいる。
共通の社会的意志のない多民族社会、複合社会のインドネシアでは、国民が国家を信頼しなくなったとき、秩序を支えるはずの社会的連帯のないことがこれで明らかとなった。これが将来どうなるか、それはわからない。しかし、インドネシアにおける国民国家建設の破綻を見れば、「権力の分散」を民主主義、地方自治の拡大と同一化するわけにはとてもいかないし、アメリカは知らず、東南アジアにおいて国家が解体し社会秩序が崩壊することなどありえない、とうそぶいているわけにもいかない。その結果、この地域にふたたび、かつてラッフルズの見たような「マレーの王たち」のまんだらが成立するとは思わない。しかし、それにしても、インドネシア共和国国家、フィリピン共和国国家といったフォーマルな国家の枠内で、ジャカルタ、マニラなどから相当に自立したセンターが登場し、そうしたセンターが国境を越えて様々なネットワークで結ばれる、またそうした領域のあちこちで秩序が崩壊する、そういった事態は十分ありうることだろう。(pp.194-195)
今、東南アジアの島嶼国の海域では、海賊や人身売買、木材の不法伐採交易のネットワーク、イスラム主義過激派のネットワークが国境を越えて跳梁跋扈している状況にある。そうした状況を著者は2000年時点で予見されていたのだろう。それらに対応した地域秩序をどう形成・維持していったらいいのか。短絡的に地方分権化を唱えてそれを実践すればいいという問題でもなさそうだとうのも本書を読んでいてわかったポイントだが、ではどうしていったらいいのか、1回読んだだけではわかりにくかった。

本書をわざわざ購入して我が家の蔵書に加えたのは、これからも何度か読み直したいと考えたからである。そのうち再び本書を記事として取り上げることもあるだろう。
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