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『青空のルーレット』 [読書日記]

青空のルーレット

青空のルーレット

  • 作者: 辻内 智貴
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2001/05
  • メディア: 単行本
内容(「MARC」データベースより)
燃えるような夢を抱いて、都会の片隅で働く男たちの篤い友情を描く、感動の物語「青空のルーレット」に、第16回太宰治賞受賞作「多輝子ちゃん」を併収した、処女作品集。
アマゾンで青年海外協力隊(JOCV)の本を物色していた時、JOCVの本を購入した人が併せて購入しているというので挙がっていたのが『青空のルーレット』である。辻内智貴の作品は、近所のコミセン図書室には1冊も所蔵されておらず、恥ずかしながら全く知らなかった。こういう初物の作家の本は僕はいきなり購入したりはしないことにしているので、市立図書館でネット予約して借りて読むことにした。

結果はというと、収録されている2つの短編(といっても1作品100頁前後の分量はあるが)――「青空のルーレット」と「多輝子ちゃん」はJOCVとは縁もゆかりもなく、その点では期待外れだったのだが、2作品とも意外と面白かった。「青空のルーレット」は2007年に映画化されており、ガテン系作品として注目されたことがあるらしい。ビル清掃会社で日中は働き、夜はバンド活動や小説家、漫画家など各々の夢を追い続ける若者たちという設定は、今まで同種の設定の小説を読んだ記憶がなく、とても新鮮に感じた。(伊藤たかみの『八月の路上に捨てる』はひょっとしたらそれに近いかもしれないが。)しかも、いかにも作業着が塩を吹いてそうな暑苦しい若者たちの姿を、青空と繋ぎ合わせて透明感を出している。小説というよりも、詩でも読んでいるような感覚を覚えた。

ところが、もう1篇の太宰治賞受賞作品「多輝子ちゃん」の方は、詩ではなくちゃんとした小説仕立てとなっている。瀬戸内海を思わせる漁村からバスで大きな街の高校に通う多輝子ちゃんの恋のお話だが、読んでいて重松清の作品にすごく似ている気がした。(辻内智貴は重松清よりも少し上の世代の小説家なので、どちらかというと辻内作品に重松作品が似ているといった方がよい。)それだけでも十分親近感を抱かせる作品だが、これの良さは、逆算していくと多輝子ちゃんが高校生活を送った時期というのが、僕らが高校生だった頃とかなり近く、当時の雰囲気を醸し出している状況描写が多かったことだ。本作品が太宰賞を受賞したのは2000年だが、多輝子ちゃんの高校時代はその15年前――1985年のことである。本作品では地方のラジオ局の番組で偶然流れた無名のアーティストの歌が、死のうと考えていた多輝子ちゃんの心を打ち、それで思いとどまったことになるのだが、こういう、デビュー前のアーティストの曲を宣伝のために地方ラジオ局に送って流してもらうようなプロモーション活動は当時はかなり行なわれていたのではないかと思う。

好きになったかと聞かれると、正直言って2冊目をすぐに読んでみたいとは今は思えない。年齢的に僕らよりも10歳近く年上の作家だが、描かれている作品は僕らより10~20歳若い作家が取り上げていてもおかしくない世界を扱っており、アラフィフティの読者が積極的に読む作家ではないような気がする。むしろ、読者としてはもっと世代が若いが、うちの子供達が中学・高校生活を送っている間に出会って欲しいなと思える作家である。

話は変わるが、この三連休、僕はうちの子供達が中学・高校生活を送ることになるかもしれない学校の学校祭に出かけてきた。17日(土)は娘の志望校の1つ、18日(日)は長男の志望校の1つである。どちらも僕自身の中学・高校時代に経験した文化祭の風景を思い出させるには十分で、特に教室を利用したイベント企画は、当日もさることながら、当日に向けた準備の過程の方のことをむしろ懐かしく思い出した。文化祭当日はというと、教室のイベントの当番をやってる時間帯はともかくとして、そうでない時間帯での時間のつぶし方では難儀したような記憶がある。高校時代のことだが。

今でも覚えている。中学から高校に上がって初めての文化祭で、体育館がステージと化し、にわかバンドが林立して演奏を競い合う姿に遭遇した。クラスでは英語の成績があまり芳しくなかった奴が、ステージに上がるとマイクを握ってディープ・パープルの曲を熱唱していたりして、その時だけは間違いなくヒーローだったわけである。こういう活動に熱を入れることなど当時の僕は思いもつかなかったが、人の価値観が多様であるということを初めて目の前に突き付けられる機会となったのが高校の文化祭だったような気がする。

そういえば、演劇部の公演というのもあったな。クラスで仲が良かった奴が演劇部にいたのでわりと毎年体育館で見ていた記憶はあるのだが、先のバンド演奏も含め、高校の文化祭は僕には「お前、何やってんだよ」という閉塞感を突き付けるに十分の機会であり、学校が公開されて出入り自由になっているのをいいことに、意外と中抜けか早退かなにかをして、終日構内に残るような律儀なことをしていなかったのかもしれないと思う。教室の企画と体育館以外に、文化祭で僕が何をやっていたのかという記憶が完璧に抜け落ちてしまっている。

中学・高校に進んだら、こういう時に単にお客さんとしてではなく、「自分は仲間とこれをやった」と誇れる自分の「居場所」を見つけて欲しい―――オヤジの願いはそんなところだ。
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