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『日本農業史』 [シルク・コットン]

日本農業史

日本農業史

  • 編者: 木村茂光
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2010/10
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
農耕の始まりから現代まで、多様で豊かに発展した日本農業の歴史を、開発や経営、技術・農具、稲の品種、畠作の種類、減反など、分かり易く解説。旧来の農業史観に新視覚を提供し、自給率40%時代の農業に一石を投じる。
以前、『お産の歴史』という本の紹介をした時、「民衆の歴史、社会の歴史、女性の歴史、農業の歴史などなどといった主題別で日本の歴史を見ていったら、もっともっと歴史は味わい深いものになると思う」と述べたのを思い出す。ここに「農業」も含めていたのは、実はあの当時、書店の店頭に『日本農業史』なる本が新刊書として置かれていたのが念頭にあったからだ。立ち読みしてこれは面白いと思った反面、1冊3,800円もするのでどうしても買う気になれなかった。7月初旬、自宅からほど近いJR武蔵境駅南口に「武蔵野プレイス」というビルが立ち、そこに武蔵野市立図書館の分室(といってもほとんど本館並み)が入った。開館から1ヵ月が経過して初めて利用者カードを作って館内の蔵書を物色したところ、「農業」の棚に『日本農業史』を見つけた。さっそく借りた。

通史といってもざらっと最初から最後まで読んでてもしょうがないので、索引欄で「養蚕」「生糸」「桑畠」などの蚕糸業に関連するキーワードでさらに検索をかけて、それらが出てきそうな箇所を先にチェックした上で流し読みと精読とでメリハリをつけてみることにした。日本の農業史といっても、古代から中世、近世にかけて遺された史料のほとんどが、稲を中心に形成された農業観、土地制度に基づいて記述されており、これが日本の農業史研究の足枷になってきたと編者は述べている。ここでも柳田国男に対する否定的な見解が出てくる。彼のいう「常民」とは稲作民のことで、そのために日本民俗学はその当初から稲作文化を主対象として、それを伝承の全国的な聞きとりによって解明することに心血を注いできたと述べている。
近代的な学問・研究に基づく知識体系のなかに、稲作中心の日本文化論が形成され、日本社会に定着することになった背景には、柳田らによって全国的に行なわれた稲作伝承の記録運動が関わっていたことは否定できないと考える。(p.7)

そんな制約があって、全体の記述には稲作に関するものが多くなる傾向は否定は難しいが、とはいえ執筆者は畑作にもスポットを当てるべく相当な配慮がされているものと思う。これをどう整理し、簡潔にブログで紹介していったらいいのかは悩ましいが、できるだけ蚕糸業に焦点を絞って以下述べてみたいと思う。

1)古代の律令国家では、一般庶民の生活を安定させるための当面の課題として、稲作ではなく、雑穀を中心とした畠作物を奨励した。日本書紀によれば、持統天皇の693年の詔勅で、「桑・紵・梨・栗・蕪箐らの草木」を植えて五穀を助けよとの記述がある。

2)743年には墾田永年私財法が制定され、これによって墾田が飛躍的に増大する中、併せて雑穀栽培を中心とした畑作奨励も行なわれていった。著者によれば、この墾田奨励と雑穀奨励は別個の政策ではなく、年間を見通して一貫した政策として見る必要があるという。また、当時中央政府から発布されて郡司を通じて末端農民へも伝達された農業に関するお触れの中には、「桑畠もないのに百姓が自宅で養蚕を行なうことを禁ずる」旨が書かれている史料があるという。

3)平安時代に入ると、荊棘(いばら)や河川敷などの「自然」を対象に、農民達が開墾の手を入れ、田畑や栗林、桑畑などに造成する努力がなされた。平安後期、美濃国茜部荘で古い河跡を少しずつ桑原にしてきたと書かれた史料があるらしい。

4)13世紀後半以降、荘園領主層が品質の優れた輸入絹織物や年産絹織物を強く要求するようになるに従い、それまで荘園から現物納されていた絹は徐々に代銭納に切り換えられていった。その結果、14世紀まで主要な原料生糸の生産地帯=養蚕地帯だった東海・東山・山陰・北陸にやや変化が生じ、但馬・丹後・丹波・越前・加賀・越中など京都の絹織業に結びついた山陰・北陸地方がクローズアップされてくる。また、それと連動して、14世紀末までには京都の大宮に大舎人織手座、四条に綾座・錦座など、絹織物の生産と販売を行なう座が成立した。

5)南北朝・室町期に入って頻繁に記録されるようになった惣掟・村掟の中に、惣内の木・柴・桑などの切木、森林の伐採、草木の葉などの採取を禁じる項目があり、それに違反したときは厳しい罰則が加えられると記されている。これは、中世後期になって進んできた農業の集約化の中で、惣内での肥料の確保と草木の共同利用を実現するために設けられた項目と考えられる。

6)戦国時代までは、村の領主・支配者であった在地土豪が村に住んで広大な土地を所有し、平時は自らの下人を使って周囲の百姓衆を従属させながら農業経営を営んできたが、近世に入るとそうした在地領主制は兵農分離によって完全否定され、支配者である武士は原則として城下町などの都市に集住して統治を担い、被支配者である百姓は村に住んで農林漁業に専念するという、身分的な差別と生活空間の分離が実現した。村を離れた領主は、武力の強制を用いず、頻繁な文書のやりとりを通じて村と百姓を支配した。年貢・諸役の徴収をはじめ、法令の伝達や遵守などをすべて村に請け負わせることで村と百姓を支配した。(村請制)

7)近世中後期の百姓は、単位面積当たりの収穫・利益の増大、すなわち土地生産性の向上をひたすら追求した。豊富なフロンティアを新田畑に開墾できた近世前期と異なり、開発が飽和点に達した近世中期以降は、新田畑の外延的拡大による農業生産力の向上はもはや望めなかった。このために、百姓は限りある諸資源を有効に活用し、高度に循環させることによって、生産力の増大を模索した。具体的には、絶えず土壌と栽培技術に改良を加え、肥料と労働力を多投し、丹精を込めて耕作に励み、栽培管理を精緻化させていった。

8)近世中後期、畑は、四木三草(茶・楮(こうぞ)・漆・桑と麻・藍・紅花)や菜種・木綿・煙草・果樹など商品作物生産の主たる舞台であり、商品貨幣経済の発達を促進させる基盤だった。但し、畑作には、何種類もの夏作物の播種、その後の頻繁な除草、秋以降の夏作物の収穫と冬作物の播種の重なりなど、いくつかの労働のピークが生じる他、水が気象災害の緩衝となる水稲稲作と違い、霜害・風蝕害・雨害・旱害・多湿害といった異常気象の被害を直接受けやすく、さらに雑草の種類や病虫害・鳥獣害も水田以上に大きかったため、1つ1つの畑作物ごとに耕起・播種・肥培管理・中耕・補植・除草・収穫などの周密な農法が求められた。こうした背景から、江戸時代中期の元禄~享保期には、農民の手による農業技術書(農書)が全国各地で発刊されるようになった。

9)正徳・享保期、新井白石や徳川吉宗は、貿易制限の強化や国内産業育成策の展開により、それまでの輸入品を日本国内で自給できるよう転換を試みた。京都・西陣織に代表される絹織物業は、近世初期、原料を中国からの輸入白糸に頼っていたが、18世紀以降、生糸輸入量が制限されると、国内の生糸生産が刺激を受け、それまで農作物に適さなかった山間地域で良質な生糸を作る努力が重ねられ、養蚕・製糸業地帯が広がっていった。岩代国の信夫・伊達地方、上野・信濃・甲斐などは新たな養蚕地帯として名を上げ、地域内で蚕種・養蚕・製糸・絹織などの分業を成立させた。近世中期には幕府や諸藩が国産奨励策として養蚕・製糸業を奨励し、その発展に拍車がかかった。催青・掃立・給桑・防病管理・上蔟などの養蚕技術が改良され、年間の蚕期も増えていった。桑の品種・育苗法も改良され、専門の桑畑が広がった。近世には、『養蚕秘録』、『蚕飼絹篩大成』、『蚕当計秘訣』、『蚕飼養法記』、『養蚕規範』といった養蚕・桑栽培に関する農書が数多く誕生した。養蚕地帯の寺社には養蚕絵馬が奉納された。こうした養蚕・製糸業の急成長の結果、幕末の貿易開始直後には、国産の生糸が日本最大の輸出品(全輸出品の約8割)となり、外貨の獲得に貢献した。(pp.236-237)

10)明治期の作物構成をみると、中心は米穀で明治前期には全体の6割(価格による相対比)を占め、次いで麦と工芸作物で1割、養蚕で1割、雑穀、イモ、豆類が各3~4%という構成だった。その後構成は昭和期までに徐々に変化し、野菜・果実・養蚕・畜産が拡大し、米・工芸作物が比重を落としていった。

以上は蚕糸業を中心に時系列で拾い出してみたわけだが、これを見てよくわかったのは、養蚕が産業としての重要性を増したのは近世に入ってからだということである。確かに古代から桑は植栽されていたし、蚕の飼育についても記述は残っているが、国産生糸への需要が刺激されたのは、江戸中期に輸入代替政策がとられてからだということがわかった。

さて、これ以外にも興味深い記述が幾つかあるので紹介しておく。

第1に、日本の農村社会を理解する上で、著者は日本独特の家族制度―「家」制度を理解しておくことが有用だと強調している(p.263)。日本的な「家」は、伝来の家産を基礎に家名・家業を継承していく血縁を主とした集団で、先祖伝来の家名・家業・家産を子々孫々に至るまで継承させていく制度的志向性を持つことに最大の特徴がある。家族形態としては、一世代一夫婦がつながった直系家族形態をとる。この「家」を基盤に、家族労働を基本とした農業経営が営まれるため、同じ地域で同じ「家」が何世代にもわたって生産・生活をし、地域内の「家」と「家」、或いは「家」々と農地・原野・山林との間には濃密な境関係が形成されることになる。これが日本的な「村」である。日本的な「村」は、生産や生活で村人が常に結び合うことになる地縁的な組織であり、個別農家を統合していくような自治的機能をある程度備えていた。他村と区別する村境をもち、「村」の領域を持っていたところに特徴があり、この点は他のアジア諸国の村落とは大きく異なるという。言われてみれば、確かにそう感じるところはある。但し、この「家」制度は人の移動が頻繁に行なわれるようになった現代はかなり崩れて来ているような気もするが。

第2に、こうした日本的な「家」は系譜的に固定的であるところに特徴があるという(p.267)。 「家」制度の下では、相続は長男単独相続で、土地財産とともに親の世代までに蓄積されてきた資本や技術・経営知識などがそのまま次世代に引き継がれることになる。親世代までの農業経営がそっくりそのまま次世代に連続していく。逆に、分割相続が行なわれている鹿児島から奄美地方や沖縄、そしてほとんどの東アジア、南アジア諸国の場合、農業経営は世代ごとに分裂・断絶してしまう。分割相続であるために、世代交代を経るごとに土地財産は分割され、親世代までに獲得された経営資本や知識・技術は分散してしまう。分割相続地帯は一般に農民の流動性が高い。短期的に職業を変える場合が多く、一世代にわたって農業に就業するかどうかも不明である。土地や経営資本をそのまま次世代に受け継いでいく日本の場合、農業経営が断絶する心配がないから、土地改良投資などの長期投資も安心して積極的に行なうことができた。むしろ、財産を増やして次世代に受け渡そうという意欲が強く、土地の価値を増すような土地改良には積極的になれた面もある。以上の点も、南インドの農村をじかに見てきた後だけに強く感じる。親が遺した桑畑と蚕室を、息子2人が分割相続したために、片方は桑畑がなくて養蚕をやめてしまったというケースを実際に目にした。

第3に、明治末期に指摘されてはじめていた「難村問題」―農民・農村の疲弊に関する記述で、その背景の1つに、「都市文化の農村への浸透と若者の都市への流出」が挙げられていたことである。著者によると、元々農村労働力の都市への流出は構造的に見られたものだが、この時期以降は、若者の都市への流出が、農村疲弊や農村の人材枯渇として問題視されるようになり、都市・商工業と農村との対抗的図式が強調されるようになっていったという。こうした背景から、農本主義的な主張が学会でも強まっていったという。

以上、流し読みして付箋をつけた箇所を中心に拾ってみた。じっくり読めばおそらくもっと味わい深い内容が含まれているものと思うが、現時点での問題意識からはこれくらいで十分。それでも長文になってしまったことはお赦し下さい。
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yukikaze

面白い内容ですね。「家業」という言葉が示すように日本では基本的に「家」単位で職業が決まっていた歴史があります。

武士も昔は「兵の家」でないとなれず、どんなに武勇に優れていても他の家の者はなれませんでした。

近世に至って戦乱の中でその辺りが出鱈目になり「下剋上」などという言葉も生まれましたが・・・。

戦後、民法が改定され分割相続になってさらに、農村などでも「家業」が衰退し、取り返しのつかない状況になっているところも多いように感じます。
by yukikaze (2011-08-17 00:32) 

らっさな

網野善彦氏が、宮本常一氏の「百姓」観を批判している著作がありましたが、それと通じるところを感じます。
本書、大変興味深い内容です。
機会があったら、読んでみたいと思います。

by らっさな (2011-08-17 01:09) 

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