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『インド現代政治』 [読書日記]

インド現代政治―その光と影 (Sekaishiso seminar)

インド現代政治―その光と影 (Sekaishiso seminar)

  • 作者: 木村 雅昭
  • 出版社/メーカー: 世界思想社
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: 単行本
内容(「MARC」データベースより)
インドがにわかに流動化し始めてきた。経済は大変革の最中にあり、政治はヒンドゥー原理主義の高まりなど混沌としてきている。深い歴史的理解を踏まえて現代インドの核心に迫り、その将来を展望する論考。
3年間のインド駐在員生活を終えて帰国することになった時、心残りがあったとしたら、インドの政治についてしっかりと分析できるほどの知見を得ることができなかったことにある。なんでネルー家ばかりがチヤホヤされるのか、なんで州首相としてファミリーに手厚い便宜ばっかり図ってきた灰色政治家が政党のリーダーでいられるのか、なんで灰色政治家の周りにいる人物は揃いも揃って人相が悪いのか(苦笑)、なんで州首相が州政府庁舎には行かずに自宅で執務してても許されるのか、そしてなんでタミル・ナドゥ州の州首相は歴代映画俳優なのか―――よくわからないことばかりだ。仕事上あまり政治家とやり取りするような必要がなかったので、問題意識を持って見てなかったが、駐在員生活を終えて帰国することになってしまうと、こういうことについて知らずに過ごしたことが猛烈に後悔になって襲ってくる。

潜在的にはそうした理由があったのだが、それを今なんとかしようと思ったきっかけは別のところにある。今から宣言しておくが、これから暫くの間、大英帝国の植民地運営について少し調べてみようと思っている。狙いはアフリカにおける英国の植民地政策について知りたいということなのだが、どうせならインドにおける植民地政策についても抱き合わせで調べてしまおうと思った次第。それに、僕もマイソール周辺で3週間近くも滞在したわけだから、マイソール王国で最も有名な18世紀後半の国王ティプー・スルタンについてもう少し調べてみたいという気持ちもあった。

図書館で見つけた本書を読もうと思った直接的なきっかけは、本書の補論として「フランス革命とインド―ティプー・スルタンとウェルズリー兄弟」が収録されていたからだ。ティプー・スルタンが南インドに君臨していた当時、フランスではフランス革命からナポレオン戦争の時代であり、英国は東インド会社派遣のウェルズリー総督の下でインド統治を確立しようと動き始めていた。ティプー・スルタンは英国に対抗するためにフランスとの連携を試みたが本国の混乱もあって果たせず、ウェルズリー総督の弟アーサーはマイソール戦争で戦功をあげ、その後インドにおける英国の支配地域の拡大にも功績があり、それが認められて後にウェリントン侯爵としてワーテルローでナポレオン軍とも激突する。ティプー・スルタンとウェルズリー兄弟の攻防、その後の兄弟の活躍は、読み物として非常に面白く、また参考にもなる。

ただ、そのお目当ての英国のインド植民地政策そのものよりも、むしろ面白かったのはインド政治の文化的背景に関する本書の論考であった。

元々本書は著者が各所で発表してきた論文を集めたもので、全体としての統一感は必ずしもない。ただ、強いて挙げるならば前半の各章については何故インドの現代政治は今のような形で形成されてきたのかが比較的わかりやすく書かれている。1990年代後半に書かれた本であるにも関わらず、僕が図書館で物色した数冊のインド政治に関する書籍の中では、政治の文化的背景をしっかり押さえて書かれており、今でも十分お薦めできる内容の本だと感じた。

著者によれば、政治の文化的背景を探求しようとする試みは、近代の政治学、政治社会学の主流をなしているものの、第三世界に関する限り、つい最近まで不当に等閑視されてきたという。これは、第二次世界大戦後に本格化した地域研究では、単線的な近代化論が全盛を極めており、そこでは西欧近代の政治体制、およびそれと対をなしている産業文明にゆるぎない信頼が寄せられていて、世界史の動向も近代西欧型の社会へと進化・収斂してゆく直線的な流れと把握されていたからだという。途上国に見られる土着の精神文化的伝統は、その過程で一掃されるべき過去の遺物であると目され、それゆえ何ら考慮を払う価値もない、多くの地域研究者は暗黙のうちにこういうスタンスをとっていたという。ところが…
第三世界の現実は、こうした教説や期待が意味するところよりもはるかに錯綜した軌跡を描いている。多くの諸国で近代的諸制度は定着せず、かといって父祖伝来の社会制度や精神文化的伝統も、もはやかつての自明性を喪失してゆくことを運命づけられていた。ひとたび近代の衝撃をこうむるや、かつて人々に日々の生活の糧と心の拠りどころを与えていた伝統的な諸制度や諸価値は、その根底から揺り動かされる一方、それらにとって代わるべく期待された新たな諸価値や諸制度の移植は、その幾多の紆余曲折が認められることとなった。それどころか近代の衝撃は、それまでまがりなりにも保たれていた社会や文明の有機的統一性を破壊する反面、外から流入してきた近代的諸要素も、近代の衝撃をくぐり抜けてなお残存する伝統的諸要素に不断に換骨奪胎され、西欧的近代の戯画さながらへと帰着してゆくこととなったのである。(p.6)

この意味からして本書の真骨頂は第2章「取り分社会の論理」であろう。少なくともこの章についてはこれからインドに長期で滞在しようと考えておられる多くの日本人の方々にご一読をお薦めする。恥ずかしながら、僕自身、本章を読んで、初めてインドの農村社会の捉え方がわかったような気がした。僕もインド各地の農村を見て回る機会は駐在員生活3年間の間に随分とあったが、そこで見てきたことを帰納的にまとめてインドの農村像を描こうとすると、本章で書かれた内容がもっともうまくフィットするように思える。

著者によれば、インドの村落社会の特徴の第一は、それが村民が必要とするほぼ一切のものを生産する自給自足的な社会であり、仲間相互間の争いを可能な限り自分たちの手で解決しようとする自治的な社会制度だという。さらに村落は、村落住民の最低限の生活がとにもかくにも保障される場も意味していたのだという。通常、インドの村落では、高度の分業体制がうちたてられていたばかりか、村落住民の間にも貧富の差が少なからず見出された。そこでは、地主ないし有力農民が村落社会の支配者として君臨する一方、彼らに従属する社会層として、小作人や農業労働者、村落手工芸者や奉公人といった「細民」が存在していた。しかし、この支配者と村の細民の関係は、むき出しの収奪関係によって律せられていたわけではないと著者は言う。
これら村落の細民は、村落に居住し、村落社会の一員と認められ、さらに慣習の定めるところに従って物品ないし労役を提供しているかぎり、貧しいながらも一定限度の生活を送る場が保障されている。また似たような関係は、小作人や農業労働者と地主との間にもうちたてられていたばかりでない。さらに旱魃や洪水が襲いかかり、村落の細民が飢えに苦しむようになるや、彼らに援助の手を差し伸べることが、地主ないし農民に要請されることとなったのである。(pp.38-39)

こうした恒常的な雇用関係は、それに付随する保護関係とともに「ジャズマニ・システム」と呼ばれている。しかし、このジャズマニ・システムというもの、たとえそこで恒常的な雇用関係がうちたてられていたところで、必ずしも地主ないし農民パトロンと手工業者や奉公人との間に緊密な人的結合が育まれていたわけではない。人と人とを直接的に結びつけるのではなくて、土地という「モノ」を介して間接的に結びつけるものに過ぎないという。
地主ないし農民パトロンは、土地を保有するかぎり、そこにもともと組み込まれていた細民の権利を、いうならば彼らの「取り分」として尊重することを義務付けられていた反面、そこに「取り分」を有する手工業者や奉公人からサービスを受け取る権利を有している。他方、手工業者や奉公人も、村落社会の一員と認められるかぎり、土地に組み込まれた村の細民の「取り分」のどれか1つを報酬として与えられる一方で、当の「取り分」が組み込まれている土地を保有する地主に対して、サーヴィスを提供することを義務づけられていたのである。(p.41)

地主やパトロンが、土地を介して農業労働者や手工業者、奉公人といったクライアントと繋がるという関係は、結局その土地の所有者が交代すると、新たな所有者に対して自動的に引き継がれるものなのだという。つまり、所有者が代わっても、その土地で働いている人々には「取り分」を得る権利が変わらず保証されているということになる。

新しい地主や農民パトロンが、折にふれ村落の細民に援助の手を差し伸べることとなったところで、その由来は後者に対する家父長的な保護感情にあるのでもなければ、いわんや人間的な同情になるのでもなかった。むしろそこには、前者の威信感情という多分にエゴイスティックな契機が微妙に投影されている。つまり非常時に際して村落住民を見棄てることは、村の名望家としてのみずからの声望を著しく傷つける危険を秘めたものにほかならない。そればかりか人々に恒常的にサーヴィスを提供させる一方で、彼らを自己の被護民さながらの地位にとどめおくことも、あたかも従者を従える貴族さながらの状態にあやかり得ることとなるゆえに、彼らの威信感情を少なからず満足させることとなったのである。(p.43)

僕は先月の南インド訪問で、養蚕で成功を収めた農家が多くの労働者を雇ったり、その労働者に対して年間100kgのコメを無償配布したり、冠婚葬祭でまとまったお金が必要な時には用立てたり、いろいろな便宜を図っている姿を目にした。それが純粋に彼らの社会貢献意識から来ているものなのかどうか、或いは最近は労働力不足が深刻で農業労働者を長期で繋ぎとめておくために必要に駆られて新たにそうするようになったのか、それらをどう整理して理解したらいいのかがよくわからなかったのだが、本書を読む限り、地主は農民パトロンは元々そうした自己陶酔的な動機を有していたのではないかと思うようになった。

しかしこうした関係を取り巻く環境は変化してきている。労働力不足が顕在化してきて、パトロンとクライアントの関係に変化が見られる。或いはクライアントがパトロンの下で働くだけではなく、他所での雇用機会を求めて村落コミュニティから出て都市に向うという選択肢も増えてきたわけで、これもパトロン・クライアント関係に大きな変化をもたらすものと考えられる。

ただ、いずれにしてもその出発点としてインド農村のパトロン・クライアント関係をうまく整理して枠組みの提示をしてくれている本書は非常に参考になる。インドに関心のある人には是非お薦めする。
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