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イザベラ・バードを読む [宮本常一]

今どき傍観者的に語るのはやや不謹慎なエピソードかもしれないが、東日本大震災が起きた被災地や、計画停電で明かりが消えた地域で、暴動や略奪行為が非常に少ないことは、外国メディアや実際にそれを体験した外国人の方々をたいへんに驚かせているそうだ。外国人の眼から見ると、日本はそれほど安心安全な国なのかというのは直接比較する経験を持たない僕には理解が難しいところだが、いつ頃から日本はそうだったのかというのを考えてみる上で、イザベラ・バードの著書『日本奥地紀行』は参考になる。バードは明治時代の初めに通訳の伊藤だけをお供にして東京から下野、猪苗代、新潟、山形、秋田、青森を経て北海道に渡り、アイヌの居住地域も訪ねている。そして、このバードの紀行について解説をしてくれているのが、戦前から戦後にかけて日本人として最もくまなく日本を歩いたであろう草の根民俗学者・宮本常一である。

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
五十余年の歳月と16万キロの旅程。日本列島の白地図にその足跡を、赤いインクで印していけば、列島はまっ赤になるといわれた、その人。西の大旅行家の名紀行をその人、宮本常一が、読む。日本民族と日本文化の基層を成す岩盤を、深く鋭く穿ちながら―。
本書は、宮本が日本観光文化研究所の所長を務めていた頃、昭和49年から54年にかけて、毎月1回土曜日の夕方に開催していた講読会で、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を取り上げた7回分の講演録をまとめたものである。イザベラ・バードの著書を僕自身が読み始めるにあたり、稀代の民俗学者はこの明治初期の日本を描いた文献情報をどう読んだのか、学習参考書として先ずは読んでみることにした。

この女性の一人旅について、宮本はこう述べている。
(ディケンズの)『二都物語』が書かれたのは1859年=安政6年とされていますが、その同じ時期に、東海道の女の一人旅はしょっちゅう見られたのです。「こんな平和な国が世界中のどこにあるだろうか」ということをある人が書いているのを読んで、私は非常に感激したことがあるのですが、こういうことは鎖国が始まった頃にはもうそうなっていたのではないか。とにかく、日本の農村というのは、夜、戸締りをしなくても眠ることができる。これは決して明治になってからそうなったのではなくて、江戸時代にはすでにそうなっていたのです。(p.11)
そして、肝腎のイザベラ・バードもこう書いていると注目している。
ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群衆に取り囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、皮帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事をほうり出して酒を飲んだり雑談をしたりすることもなく、彼らは直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって、家へ帰るのである。ほんの昨日であったが、皮帯が1つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折り賃として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。(pp.107-108)
こういう記述を読むと、日本って本当に良い国だなと思ってしまう。

多分、イザベラ・バードの著書をそのまま読んでいると何気なく見落としてしまうような発見がとても多いと宮本は度々語っているのである。以下はほんの一例だが、僕は非常に印象に残った。

さきほどのまがいものの良い例だと思うのですが、実際に戦前に机の前に座ってまじめに仕事していた人が、日本に一体どのくらいいたかというと、全くひどいもので、1日座ってはいるが、仕事はしないで時間があるとお茶を飲みに行ったり……。日本へ来た外国人が、日本のオフィスにいる人たちが怠け者だというのをよく聞くのですが、外国では時間内はみな一生懸命働くといいます。その芽生えがこの記事にあるように、つまり何をして良いのかわからないのです。
 もともと日本の官僚社会に事務はなかったのです。(中略)ただ盲判を押すだけだった。しかもその盲判にとても時間がかかり、一番下の者が作成して印を押し、主任の未決の箱に入れる。それがなかなか既決の箱に入らないで10日も20日もかかり、催促してやっと係長の所へ、そして課長、部長といき責任者の所へ届くまでに早くて3ヵ月、長いと半年かかったといいます。そういうことが不思議でも何でもなくて、戦争がすんでからも続いていたのです。(pp.147-148)
官僚社会の実態を語っている箇所である。今の日本ではこんなことは少ないとは思うのだが、明治政府になって間もないこの時期、役人は何をやったらいいのかわからず、こんな状態だったという記述は新鮮だ。今の途上国のお役所でも、役人が手持無沙汰でお茶を飲んでいたり、新聞読んでいたり、おしゃべりしていたりというのはよく見かける。当事者である当該国の人々には当たり前のことであっても、外国人の眼にはイライラの対象となる。同じことは、明治初期の日本人自身には見えてなくても、それを客観的に見ていた英国人の女性の眼にはやはり違和感をもって映ったのだろう。

それから次に、「屋根は乱雑であったが、水瓜をたくさん栽培していて、壁に這わせているので屋根まで隠れていることが多かった。(第32信)」という短い1文があるのです。これを問題にしたいのは、実は日本では西瓜(水瓜)は南の方では作られたが北の方ではほとんど作られていなかったということになっている。西瓜を仙台や盛岡の人たちが食べるようになったのは、東北本線が通ずるようになってからで、夏に関東平野から運ばれた水瓜をこれらの町の人たちが食べて、これほどうまいものがあるだろうかと驚いたという記事が、当時の岩手や宮城の新聞に出ているのです。ところが日本海岸の方ではすでにこの時期に西瓜が作られていた。おそらく船で運ばれて行ったものだと思いますが、西瓜が北の方へ分布していった様子がこういうことからわかると思うのです。(p.202)
宮本が民俗学を志した当時に通説だと言われていたことが、イザベラ・バードの何気ない記述から覆されるということが幾つか見られるという、1つの典型例である。本書にはこういう民俗学的発見が目立つ。

日本人がアイヌに対して持つ関心より、シーボルトや他のイギリスの学者たちが持つ関心の方がなぜ大きかったかというと、とにかく日本の北方にかなり高い文化を持った民族がいるが、どうも簡単に日本人と言い切れないものがある。ヨーロッパからシベリアを移動してそこへ行ったものではないかと、そういうことから興味を持たれたわけです。(pp.208-209)
当時の欧米人がアイヌにそんなふうに興味を持っていたのかというのは驚きであった。

宮本がこういった講読会を続けた目的は、旅する人の体験を中心にして書かれた紀行文、日記を読むことを通じて、どこまでその時代の世情が理解できるか、どこまで民衆社会の世相史が調べられるかを考えることだったと言われている。ただ、巻末に収録された解説によると、講読会聴講者の期待としては、旅やフィールドワークで何を見て、何を聞かねばならないか、その勘所を、すぐれた観察眼を持ち、すぐれた紀行文を書き遺した人の文章を読んで学ぼうということがあったのではないかと思う。

そういう視点から見ると、他の著作と同様、僕が5月か6月頃に南インドで行なうであろうフィールドワークに向けても参考になることが多い。が、先ずはこの地域についてできるだけ多くの情報を集めておくことが必要だと言うことも改めて痛感させられる。日本の国土を誰よりもくまなく歩いて情報蓄積していた宮本だからこそ見えてくるものもそこにはあるのだから。
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