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『赤煉瓦物語』 [シルク・コットン]

EPSON008.JPG赤煉瓦物語をつくる会 編
赤煉瓦物語
監修:今井幹夫、文:斎田朋雄
1986年4月、あさを社 *絶版
日本の近代化の象徴の富岡製糸場をめぐる四十のエピソードを、豊富な写真とイラストで再現する。糸と赤レンガの町の輝かしい歴史と未来を考える。
インド・タタ財閥の創始者であるジャムシェトジー・タタの1893年訪日の際、どこで誰と会ったのか、何を見てきたのかというのを調べてみたいという思いから、先ず行き当たったのが日本の資本主義の父・渋沢栄一であった。渋沢は1840年、今でいう埼玉県深谷市の生まれ。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農で、原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められていたのだという。渋沢は父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業に携わり、蚕についても、22、23歳頃まで蚕種箱を背負って信州にまで蚕種を売り歩いていたという。そして、その経験が買われて、官営富岡製糸場の設立に当たることになったのだという。従って、ジャムシェトジーがタタ・シルク農場に招聘したという日本人技術者も、普通に考えれば富岡製糸場で何らかの経験を積んだ者であると考えるのが自然だろう。

とはいえ本日ご紹介する本は富岡製糸場の歴史としては入門編の1冊なので、インドに繋がってくるような具体的な人の名前までは出てこなかった。せめて、ジャムシェトジーが富岡を訪ねたといったぐらいの記述が発見できたら良かったのだが…。

そうした点では得られるものがなかった本だ。しかし、一般論としては富岡製糸場の歴史がわかる興味深い本だろうと思う。富岡と縁もゆかりもないであろう我が町の市立図書館で得られる情報ソースとしては上出来の部類だろう。

折角だから富岡製糸場設立の経緯を簡単におさらいしておく―――。

1)日本は、江戸幕府の国産奨励の政策もあり、生産される生糸は世界でも十分通用する水準に達していたという。1847年、欧州で蚕の微粒子病が大量発生し、またたく間に欧州全土に拡がって、主要養蚕国だったフランスやイタリアは壊滅的被害を受けた。産繭額は激減し、生糸市場は払底状態になっていたが、その一方で日本製生糸の評判は取り沙汰され、安政6年(1860年)の横浜開港に繋がった。

2)開港当初の生糸取引では、日本国内の生糸価格に対して外国商人が示す価格が法外な高値であった。巨大な輸出需要の前に、日本の生糸生産は大きなブームとなった。そうすると生糸仲買人の中には、ズルして儲けようとする悪どい商売を考える者も現れる。表面だけは良質の糸で体裁を整えて、中心には粗悪な糸を混入させるような悪徳商法もまかり通った。輸出が始まりしばらく経つと、欧州市場における日本製生糸の評価は急落した。

3)この事態は生糸を扱う外国商人を慌てさせた。玉石混交の日本製生糸に悩まされてきた彼らの中には、欧州の工場製糸法を日本に導入して自ら生糸生産しようと考える者も現れ、発足したばかりの明治政府も対応に苦慮する。そこで政府は、国営の近代工場を興し、優良生糸生産の範を示せば、業界も自ら改革して日本製生糸の全体的品質は向上して国益の源になると考え、明治3年(1870年)2月、製糸の模範工場の新設が決定された。その業務にあたったのが渋沢栄一で、渋沢は、工場を任せる日本側責任者として、従兄・尾高惇忠をあてることにした。

4)同年6月、フランス人技術者ポール・ブリューナ一行が来日。尾高やブリューナらは、工場用地の選定から工場設計、建設資材の調達、工女の募集等の課題を乗り越え、明治4年(1871年)3月着工、5年(1872年)7月完工、同年10月操業開始に漕ぎ着けるのである。

5)とりわけ興味深いのは工女の募集である。模範工場を作って遅れている日本の蚕糸業を改良するという方針から、日本全国の養蚕地の、特に若い女性を伝習工女として集める計画だったが。県庁や市町村役場による工女募集に対して当初応募状況が芳しくなかったらしい。その理由は、「富岡工場に娘をさし出せば、外人に生血を吸われて、生きては帰れない」というデマが流布されていたらしい。朝夕ブリューナたちが飲んでいた葡萄酒の赤い液体を見ての噂だった。困った尾高は自分の娘を伝習工女第1号として入場させ、さらに郷里の埼玉県から、全国に先駆けて100人近い工女団を入場させる。こうした初期の努力が実り、その後全国から工女団が集って来るようになったのだそうだ。

6)こうして操業に漕ぎ着けた富岡製糸場だが、その成果はどうだったのか。先ず、生産される生糸の品質については、明治6年(1873年)にウィーン万博に出展された生糸が第2位に選ばれ、「富岡シルク」の名を世界に高めたことから、製品の秀逸さは窺い知れる。次に、受け入れた伝習工女が帰郷後、国元においてどのような貢献をしたかであるが、国元での製糸業振興には貢献している事例が多い。この事例として引き合いに出されるのは『富岡日記』で有名な横田(和田)英の出身地長野県松代町である。横田英以下十数名の工女を富岡に送り込み、帰郷をまって六工社の指導者として活躍させた。これらはやがて信州岡谷の製糸業振興にも繋がっていく。因みに本書は『富岡日記』から当時の工女の生活や仕事ぶりについて紹介し、2章を割り当てている。

7)しかし、富岡製糸場の経営が順風満帆だったかというと必ずしもそうではなかったらしい。操業開始当初常駐していたフランス人教師の給与水準が極めて高かったことや、工女の入退場が激しく(1年から長くて1年半だったらしい)熟練工女が少なく、生糸の品質維持向上ができなかったこと、原料繭の買入れ価格が相場以上に高くついていたことなどが原因で、操業開始から大幅赤字が続いた。

8)このため、明治13年、政府は資本蓄積の進んだ民間部門に全ての官営工場を払下げることを決定。富岡製糸場は規模が大き過ぎて容易に民間払下げが実現せず、明治26年(1893年)になってようやく三井に払下げられた。

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こうした歴史を振り返ると、当時最新鋭の繰糸機を導入した割には歴史的役割を果たせた期間が極めて短かったことには溜息が出てしまう。今の途上国では、農村の所得向上の有効な手段の1つとして養蚕振興したいという取組みがいろいろな国で見られ、それを支援する先進国からの技術協力の事例も多く見られる。しかし、こうして出来上がった糸繭から、ちゃんと糸を引けるかどうか、引いて出来上がった生糸を使って何を作り、どこに売るかというところまで考えることはどこでも大きな課題だ。養蚕振興の次のステップは製糸業の技術的向上なのだろうが、実はここの部分での技術協力の事例は殆どない。どこの国でも最新鋭の多条繰糸機を導入したいと言う強い希望があるのだろうが、それは資本集約的生産技術であり、途上国の要素賦存状況と必ずしも合っていないし、そもそも品質への強いこだわりの源泉が今の途上国にあるのかどうかもわからない。150年前の日本が経験していたような世界市場での強い生糸需要が今の世の中にあるわけでもなく、国内での消費だけを考えたら、今以上に質を向上させるところで途上国の製糸業者が意識付けられることなどちょっと考えにくいなという気がする。そんなところに、研修用とはいえ最新鋭の機械を導入しても、うまく使われないだろうし、施設としての採算も取れないのではないかと思う。

官営製糸工場としての富岡の歴史は、今の僕達にも多くの教訓を投げかけてくれている。
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