『あゝ野麦峠』関連図書 [読書日記]
先週は『あゝ野麦峠』にたいそう感動したのだが、図書館で借りた本だったため書き込みもマーカーで線を引っ張ることもできず、いずれ返却しなければならないのがすごくもったいない気がしてしまった。書店で購入できないものかとも考えたのだが、アマゾンで取り寄せでもしないと在庫がないらしい。
取りあえず記憶を確固たるものにするには、これに関連しそうな本を立て続けに何冊も読むのが効果的だろうと思い、さらに市立図書館で検索して関連図書を追加で借りたり、書店で販売されている図書については購入したりして、何冊かを手元に置いて読み始めている。
それにしても驚きは山本の頭の良さだ。勉強が好きだからといってここまで人はやれるのかというと、僕は自信がない。自分も只今本を出そうと情報収集やインタビューをこなしているところであるが、山本の出自や歩んできた道を見ると、僕の平平凡凡とした生い立ちや、生来の努力嫌いではとうてい太刀打ちできないだろうと恥ずかしくなった。
また、山本茂美の生い立ちとか、取材のスタイル、レポートのまとめ方を見ていると、宮本常一のフィールドワークとそのまとめ方によく似ているなと感じた。野麦峠について宮本常一はどう取りあげているのだろうかと疑問に思い、書店で購入したのが次の1冊だ。
本稿の中で、宮本は岡谷の製糸工女を次の2つの座標軸で比較を試みている。
1つは、上州富岡製糸場の工女との諏訪周辺の製糸工女の比較である。本稿の冒頭、宮本は祖父から聞いたこととして、「いまの工女は貧乏な家の子がなるものだが、昔はさむらいの娘がなったものである」と紹介し、富岡製糸場に全国から集まってきた工女は士族の娘で、進歩的な思想の持ち主だったこと、対照的に岡谷に集った製糸工女はみな貧しい農家の娘で、娘の稼ぎが各々の家の生活を大きく支えたことについて述べている。富岡製糸場開業から諏訪周辺に製糸工場が立地し始めるまでには10年ほどのタイムラグしかないのだが、本書によれば、技術伝播の経路として、富岡の工女が実家に戻って周辺に製糸技術を広めていった可能性を示唆している。
第2の座標軸は絹の製糸工場と綿糸紡績工場の比較である。宮本によると、絹糸の製糸工場は農村女性を吸収してくれる最も有利な雇用の場であったが、工場は長野、岐阜、山梨等に集中しており、製糸労働を通じて農家が潤うという地域は明治中ごろまではそれほど拡がっていなかったという(p.127)。それに比べて綿糸紡績工場の方は開業時期は遅れたがはじめから大工場が出来、多くの工女を吸収し始めた。紡績工場は政府の保護下で発展し、明治18年には全国22カ所、東北を除いて鹿児島から栃木まで広く立地し、しかも多くは都市部に立地したという。こうした急速な伸びは、早々と深夜操業や徹夜操業を強いるようになり、その結果、工女は製糸工場以上の過酷な条件下で労働を強いられるようになったという。『女工哀史』という本があるが、これは綿糸紡績工場の工女の過酷な労働環境について描かれた作品だ。綿紡績業の発展過程はこれはこれでもう少し調べていきたいテーマではあるが、ここでの比較として重要なのは、両者の間での工女の扱われ方で、『あゝ野麦峠』でも工女の労働環境が厳しい厳しいと言われながらも実際の経験者はあまりその経験を批判的に回顧していない意外感の根拠は、こんなところにあったのかもしれない。
ただ、最後のこの1節は製糸工場であろうと紡績工場であろうと工女経験者には当てはまるだろうと思う。
取りあえず記憶を確固たるものにするには、これに関連しそうな本を立て続けに何冊も読むのが効果的だろうと思い、さらに市立図書館で検索して関連図書を追加で借りたり、書店で販売されている図書については購入したりして、何冊かを手元に置いて読み始めている。
内容(「BOOK」データベースより)1冊目は最も最近発刊されている、山本茂美氏の夫人・和加子氏の著作である。本書は山本茂美の伝記で、『あゝ野麦峠』が世に出るまでが描かれている。野麦峠を越えて飛騨から岡谷に働きに来ていた工女よりも、ルポルタージュの著者・山本茂美の一生が描かれている。山本自身が松本の出身で、しかも家が貧しかったので高等教育に進むことが許されず、農家の長男として農作業に従事していたというのは初めて知った。そうした背景があったからこそ、工女を輩出した村の様子にまで思いが及んだのだろうという気がする。また、『あゝ野麦峠』が単行本として発売される経緯というのが、野麦峠を題材として山本が書いたエッセイを巡る盗作騒ぎにあったというのは驚きだった。ベストセラーが世に出るまでにそのような出来事があったとは…。初版がなぜ朝日新聞社から出たからといって、山本と朝日新聞の関係が良好であったわけでもなかったらしい。
傷痍軍人として迎えた戦後に、ベストセラーとなる『生き抜く悩み』を出版。人生雑誌『葦』創刊とスキャンダル、そして起死回生のルポルタージュ「野麦峠を越えた明治百年」を襲う二つの「盗作」事件…。波乱に満ちたその生涯と、「女工哀史の峠」の記録、『あゝ野麦峠』誕生のすべてを妻がつづる、珠玉の評伝。
それにしても驚きは山本の頭の良さだ。勉強が好きだからといってここまで人はやれるのかというと、僕は自信がない。自分も只今本を出そうと情報収集やインタビューをこなしているところであるが、山本の出自や歩んできた道を見ると、僕の平平凡凡とした生い立ちや、生来の努力嫌いではとうてい太刀打ちできないだろうと恥ずかしくなった。
また、山本茂美の生い立ちとか、取材のスタイル、レポートのまとめ方を見ていると、宮本常一のフィールドワークとそのまとめ方によく似ているなと感じた。野麦峠について宮本常一はどう取りあげているのだろうかと疑問に思い、書店で購入したのが次の1冊だ。
出版社/著者からの内容紹介この中に、「女工たち」という章がある。雑誌「婦人百科」の昭和44年9月号に掲載されたものだが、取りあえずこの章は岡谷の製糸工女を理解するのには役に立つ。なお、宮本がこれを書いたのは昭和44年なので、当然本稿の中でも山本の『あゝ野麦峠』にも言及している。それを読んでこのエッセイを書いたわけでもないようだが、好意的に捉えているようではある。
庶民の歴史のなかで、もっとも明らかにされていないのが女性の歴史である。民俗探訪の旅の目的は、男たちの陰に女たちの息遣いを発見してゆくことでもあった。本書は宮本常一の膨大な著作のなかから、単行本・著作集に未収録の論考を中心に構成され、貧困と闘い困難な生活を生抜いてきた日本の女性たちの素顔を浮彫りにした。
本稿の中で、宮本は岡谷の製糸工女を次の2つの座標軸で比較を試みている。
1つは、上州富岡製糸場の工女との諏訪周辺の製糸工女の比較である。本稿の冒頭、宮本は祖父から聞いたこととして、「いまの工女は貧乏な家の子がなるものだが、昔はさむらいの娘がなったものである」と紹介し、富岡製糸場に全国から集まってきた工女は士族の娘で、進歩的な思想の持ち主だったこと、対照的に岡谷に集った製糸工女はみな貧しい農家の娘で、娘の稼ぎが各々の家の生活を大きく支えたことについて述べている。富岡製糸場開業から諏訪周辺に製糸工場が立地し始めるまでには10年ほどのタイムラグしかないのだが、本書によれば、技術伝播の経路として、富岡の工女が実家に戻って周辺に製糸技術を広めていった可能性を示唆している。
翌年(明治8年)諏訪湖のほとり平野村に中山社がおこされた。女工100人ほどの工場であったが、日本人によって建てられたこの2つ(松代と諏訪)の工場をきっかけに、製糸業がにわかに盛んになり、とうに諏訪湖畔には相ついで工場がつくられた。そしてそれらの生糸は横浜を通じて主としてアメリカへ輸出されたのである。日本人のつくった工場も機会も富岡製糸場のように金をかけてはいなかった。たいていは地方在住の先覚者が工場をつくり、はじめは地元の娘たちを女工につかっていたが、おいおい人手が足りなくなって他郷から人をやとうようになった。諏訪へは飛騨の娘がたくさんやとわれていった。まだ汽車のないころであったので、みな徒歩で乗鞍岳の南の野麦峠をこえて諏訪まであるいていった。(p.122)明治の初めの頃は給料も安く、1年働いても糸ひきの給料は1円程度だったが、明治も終り頃になると1年で100円も稼ぐ工女も現れるようになったという。当時の農家にとっては大変な金額だ。
第2の座標軸は絹の製糸工場と綿糸紡績工場の比較である。宮本によると、絹糸の製糸工場は農村女性を吸収してくれる最も有利な雇用の場であったが、工場は長野、岐阜、山梨等に集中しており、製糸労働を通じて農家が潤うという地域は明治中ごろまではそれほど拡がっていなかったという(p.127)。それに比べて綿糸紡績工場の方は開業時期は遅れたがはじめから大工場が出来、多くの工女を吸収し始めた。紡績工場は政府の保護下で発展し、明治18年には全国22カ所、東北を除いて鹿児島から栃木まで広く立地し、しかも多くは都市部に立地したという。こうした急速な伸びは、早々と深夜操業や徹夜操業を強いるようになり、その結果、工女は製糸工場以上の過酷な条件下で労働を強いられるようになったという。『女工哀史』という本があるが、これは綿糸紡績工場の工女の過酷な労働環境について描かれた作品だ。綿紡績業の発展過程はこれはこれでもう少し調べていきたいテーマではあるが、ここでの比較として重要なのは、両者の間での工女の扱われ方で、『あゝ野麦峠』でも工女の労働環境が厳しい厳しいと言われながらも実際の経験者はあまりその経験を批判的に回顧していない意外感の根拠は、こんなところにあったのかもしれない。
ただ、最後のこの1節は製糸工場であろうと紡績工場であろうと工女経験者には当てはまるだろうと思う。
戦前私は村々をあるいていて、農家の縁さきなどに青い顔をした娘たちが腰をかけているのを時折見かけることがあった。たいていは胸をわずらっていた。都会の工場で働いていた娘だろうと思った。そしてそういう娘がふたたび元気になっていった例はほとんどなかったのである。(p.129)因みに、かく言う宮本常一も、そして山本茂美も、胸を患っている。
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