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『途上国の人々との話し方』(その4) [読書日記]

途上国の人々との話し方―国際協力メタファシリテーションの手法

途上国の人々との話し方―国際協力メタファシリテーションの手法

  • 作者: 和田信明・中田豊一
  • 出版社/メーカー: みずのわ出版
  • 発売日: 2010/11
  • メディア: 単行本
去る12月10日(金)、東洋大学で開催されたシンポジウムで、僕は自分のインドでの活動について総括する発表を行なった。6月末に離任して既に半年になろうとしているが、インドで自分がやってきたことについて総括する機会がこれまで全くなかったので、東洋大学にはとても貴重な機会を与えていただけたと感謝している。全体のテーマが「アジアの内発的発展のために」ということだったので、僕の発表内容も「内発的発展」をかなり意識し、それに関わるにあたっての外部者の役割と心得について思うところを述べさせていただくことにした。自分の問題意識を含め、当ブログでは『途上国の人々との話し方』を紹介する記事を書くことで、発表に臨む前に自分の頭の中を整理するよう心がけた。これまで数回シリーズで紹介してきた本書の記事は、基本的にこれに近い形で当日の発表の中で再度述べている。

本日は、本書の紹介をいったん締めくくるという意味で、本書に対する肝心の僕の感想について述べたいと思う。前3回でも述べたような村の変化を実際に見てきた僕としては、本書に書かれていた実践内容の効果についてはさほど疑ってはいない。しかし、見えてきた変化が持続性を持つものになるのかどうかは、もう少し時間をかけて見守っていくことが必要だと思う。

1.個人の意識変革が組織全体の意識変革にどう繋がるか
シンポジウムで発表を行なった後、会場にいらしていた大学院時代の恩師のお一人O先生から、休憩時間にこんなご指摘をいただいた―――「あなたの発表で個々の住民の意識変革が起きてくるというのはよくわかったし、実際面白かったと思うが、個々の住民の意識変革が組織全体の意識変革にどう結び付いていくのかがよくわからない。」

翌11日、著者の1人である和田氏の講演会が東京で開催され、僕はその打上げ会に参加して和田氏と久しぶりにお目にかかったが、その酒宴の席上でも、講演会の主催団体の代表をされているN氏が同じような指摘を和田氏にされていた。

そう、振り返ってみても思うのだが、本書に書かれていることは住民一人ひとりの意識を変え、行動を起こさせるのにはいいかもしれない。しかし、村の中にはいろいろなしがらみがあって、声のデカイ人の前ではしゅんとなってしまう人は多いし、女性の場合は「オマエは何も知らないんだから引っ込んでろ」と亭主に一喝されたらやっぱり言いたいことも言えなくなってしまうことがあるだろう。個人の意識変革がコミュニティの成員全員の意識変革に繋がっていくには、それまで村を支配していた既成観念を打ち破り、村の権力者がそれを認めて受け容れなければいけないという大きなハードルがある。

新技術の普及プロセスなんかでも、最初は新しいもの好きの若い連中が導入し、それが徐々に浸透して閾値を越えて爆発的に普及するに至る前には、守旧派の抵抗というのがあって、普及のスピードが鈍る期間が訪れると言われている。そこで跳ね返されたら技術はそれ以上は普及しないし、新しいもの好きは逆に阻害されて窮地に陥ることにもなるかもしれない。

つまり、ソムニードがスリカクラム県でやってきたことがそれなりの変化をもたらしてきた理由の1つは、ソムニードの手法もさることながら、村の住民の構成が比較的単一的でフラットな権力構造になっていたことも大きいのではないかという気もするのである。アフリカのようにエスニックグループ間で緊張関係があり、そうした異なるエスニックグループが混在して1つのコミュニティを形成している場合、著者が本書で言っているファシリテーションは成り立つのかどうかはわからない。また、スリカクラム県に近いところということで言えば、山の反対側のオリッサ州の先住民の村を訪ねてみた時のことを思い出してみると、先住民と指定カーストの住民は同じ集落に住んでいるけれども居住区画としては明確に分かれており、生活様式も明らかに違っていた。こういうところで「住民参加」というのが本当にできるのだろうかと疑問に思えた。

ソムニードの現地駐在スタッフの方が書かれたニューズレターを読んでみても、村の権力者による抵抗といったものはあまり描かれていない。外から来た政府の役人とかNGOとかに翻弄されてきた弱い住民として描かれているので、住民の同質性の方が際立っている。そういう村だったからできたのではないかという印象を多少なりとも与える。

これに対する反論は、ソムニードがビシャカパトナムのような大都市のスラムで行なってきた女性SHGの連合組織VVKの組織強化での成果が挙げられるかもしれない。スラムの住民なら異なる民族背景を持つ人が混在しているから、そうした中でも参加型は機能したではないかと言われるかもしれない。しかし、ビシャカパトナムの事業は「エスニシティ」は異なっていても「女性」という属性を持ったグループをターゲットにしているし、ましてやスラム居住区ではエスニシティはあまり大きなハードルとはならないのではないかと、他の国のスラムの話を聞いていて感じている。だから、ビシャカパトナムでの実績はスリカクラムの成功要因には直接的には繋がらないように思う。

この問題提起に対して僕が思い付く1つのブレークスルーは、村の権力者や家族の中で声が大きいオヤジ連中に対して気付きを促す特別なファシリテーションでもやることなのではないかと思う。ソムニードは村に行っても特定のグループをターゲットにした活動をやっていない。ということは、その中で相手にする人が権力者やオヤジ連中であっても何ら不自然なところはないだろう。この連中の「セルフ・エスティーム」を高め過ぎると、ますます声が大きくなるリスクもありそうだけれど(笑)。

2.誰もがすぐにできるわけではない
この本について話をする相手の多くは、「和田さんのようにはできない」という反応を示す。和田さんだってこの手法を今のレベルまで洗練させていくのに15年ぐらいかかっているし、国際協力にかかわるようになったのも40歳を過ぎてからだということだから、そもそも20代や30代の人が「和田さんのようにはなれない」と言っているのを聞くと、時間はたっぷりあるのになと僕には思える。かく言う僕ができているかと聞かれると厳しいが、日常生活の会話の中で、バイアスのかかった意見を聞かされるリスクを下げるためにわざと事実を尋ねる質問をしてみたり、話し相手の持ち物に関心を示す質問を試みることぐらいは意識をしている。普段は子供たちの学校で起きていることはなかなか知る機会がないが、事実を幾つも尋ねていくことで、子供たちが何を覚えていて何を覚えていないかが見えてきた気がする。そういうことは確かに日常生活の中で意識すればある程度はできるが、きっかけをつかんで一気に掘り下げていくような技能は今の僕にはとてもない。

そうしたファシリテーション・スキルの問題だけではない。本書ではあまり明示的に述べられていないが、ソムニードが住民から上がってきた研修ニーズにどのようにしたら迅速かつ的確に応えられたのかをもう少しよく見てみる必要がある。

先ず、研修に対して村に適当なリソースパーソンもいない場合、ソムニードのスタッフが自分で研修を組み立てるか、外部から専門家を引っ張ってくることになるだろう。日本のNGOであろうとODA実施機関であろうと、海外で活動していてどうしても外部専門家をアウトソーシングしなければならない場合、そうした専門家に関して十分な情報とコネを持っているのかどうかが問題となる。和田さんはビシャカパトナム在住生活がかなり長く、インドでの活動経験も豊富なので、相当な人的ネットワークを持っておられる。わからなければ聞ける相手も沢山おられる。だから外から人を引っ張ってくることもソムニードの中で対処できる。

だが、多くの実施団体はそうではない。インド国内でのネットワークがあまりないので、必要とする専門家をその都度日本から連れて来るような事業設計にしているところが多いのである。和田さんほど現場経験豊富な日本人駐在員を全てのNGOが置いているわけではないので、ソムニードと同じことをやろうとしてそうそう簡単にはできない。(日本のNGOとODA実施機関を繋ぐような「草の根技術協力」のようなプログラムでは、ODA実施機関の現地の事務所が途上国国内にいる専門家とのネットワークを持っていて、必要あれば紹介するような役割が担えたら本当はいいんだろうが、そこまでできているケースは少ないのではないかと思う。)

仮に専門家を外部から引っ張ってきた場合、ファシリテーション・スキルを殆ど持っていないに違いないその人が、一方的に住民に喋りまくって研修おしまいというリスクを避けるために、現場入りする前にある程度のブリーフィングが必要となる。そうした短期間で本書に書かれた点を実戦で使ってもらえるレベルにまでどう事前に周知させるか。その上で、実際に現地入りしてソムニードのスタッフや外部から来た専門家が、どのように研修を行っているのか。これらは依然としてブラックボックスであるように思えた。ニューズレターを読んでいくと、研修での住民とのやり取りのシーンは出てくるところもあるが、その中の何がキーポイントなのかについては、補足する解説でもあったら良かったと後になってみたら思える。

繰り返しになるが、ソムニードのこうした取組みをスケールアップすることができるかどうかという点については、まだまだ確信が持てない部分が大きい。

3.外からの技術や概念の持ち込み
他人の受け売りであるが、国際協力とは、外からの支援によって伝統社会や社会システムを変革するショックを与えることであり、試行錯誤の連続でそれを乗り越えて少しずつ前進していくものである(吉田恒昭「開発プロジェクト-開発の現場を見る」、渡辺利夫編『国際開発学入門』弘文堂、2001年)。実は東洋大学でのシンポジウムに出てみて、彼らが言っている「内発的発展」には、途上国の農村社会において、外部者が新しい技術を持ち込み、その技術が地域のコンテキストに合うような形で内部化され、発展し、地域社会の振興や自立に繋がっていくプロセスという意味が含まれていたように思う。

最近、国際協力の業界とビジネス業界の境界線が徐々にぼやけてきていて、「BOPビジネス」のようなものがかなり注目されるようになってきた。僕がインドで駐在員をしている間も、BOP(最底辺の人々)を相手にどのような商品が売れるかを考えたいとして、多くの日系企業の方々がインドに調査に来られたのを僕は知っている。その多くが農村生活の実態を知らないので、先ずは視察をさせて欲しいと要望されるのだが、中には訪問先の村での振る舞い方でしくじり、住民や現場を紹介した仲介者の顰蹙を買ってしまったケースも聞いたことがある。これなど、ソムニードが最も嫌がるパターンである。市場経済化に真っ向から反対しているわけではないが、「静かに放っておいてやって下さい」と多分思っておられるのだろう。

僕は、BOPビジネスの開発を進めたい企業の方には、単独で何かを進めるよりも、現地のパートナーを先ず見つけられてはどうかと思っている。現地の事情をよく知っている人、或いはいっそのこと低所得者と商品を直接共同開発する方が、より市場性の高い商品が生まれる可能性が高いし、それこそ内発性の一側面でもあると思われる。僕は実際に商品開発の受け皿となってくれるような大手NGOも幾つか知っているから、現地パートナーとしてソムニードが最適だとは思っていない。ただ、ODA資金のような外部からの資金調達を行った場合、自己都合によらず、資金提供者側の事情で外部者の受け入れをお願いされるケースは、ソムニードでもかなり多いのではないかと思う。それがジェンダーだとかBOPビジネスだとか、ひょっとしたら団体のミッションやアプローチと相反するリスクがある概念や技術を村に持ち込むものである場合、どうやって両者の折り合いをつけるのかなというのは疑問には思えた。

以上、東洋大学での発表から1週間ほど寝かせる中でいろいろと考えてきたことを3項目で述べた。多分これだけではないだろうし、思い付いたらその都度メモしていきたいと思っている。また、印象に残った記述についてもいずれ挙げておきたい。今回は若干辛口のコメントばかりを敢えてしたが、参考になった部分はこれよりも圧倒的に多いということも最後に強調しておきたい。
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