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『多重都市デリー』 [読書日記]

多重都市デリー―民族、宗教と政治権力 (中公新書)

多重都市デリー―民族、宗教と政治権力 (中公新書)

  • 作者: 荒 松雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1993/11
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
中世以来インド歴代王朝の首都であり、権力の盛衰・興亡の一大拠点であったデリー。「7つの都市デリー」「15の町デリー」と言われてきたように、そこには各時代における城砦都市や首都の地域的な移動といった事実のほか、民族と宗教の問題、植民地支配時代の「東洋と西洋」の問題をはじめ、多重・多層的な複雑な性格が見られる。本書はデリーが発展し、停滞し、再興されて行く歴史の中に多重都市の特徴と由縁を見る。
出版年がちょっと古いが、本書はデリーを訪れる方にはお薦めの1冊である。それほど期待していたわけでもないが、先週久し振りにデリーを訪れるにあたり、何気なく図書館で借りてインドまで持って行き、帰りのフライトの中でかなりハマり込んで読んだ。

世界史を教科として初めて習った高校時代はあまり気にもならなかったが、歴史の勉強というのは難しさを感じる。例えばインド史というジャンルで見ても、その時々の主力の王朝が今のインドの版図の北から南まで、或いは西から東まで、全てを治めていたわけではないので、例えば北インドの歴史にフォーカスしている時、同時期に南インドで何が起きていたのかとか、周辺地域で何が起きていたのかとか、そういう同時進行していたことがなかなか具合よく把握ができない。アショーカ王の時代のことを学ぶと、アショーカ王が当時のインドの歴史の全てだという錯覚に陥るが、アショーカ王の最盛期でも今のマハラシュトラ州ナグプールあたりまでしか勢力が及んでいなかった筈で、その時南インドはどうなっていたのかがすっと頭に入って来ない。また、ティムールにしてもムガールにしても、北インドに侵入してきたのはアフガニスタン経由なのだが、そうするとインドの歴史だけ見ていても仕方がなくて、アフガン情勢も理解しておく必要があったりする。特に北インドはそうした外敵の侵攻を頻繁に受けた土地であり、それをインドという国単位で歴史理解することは難しかったりする。

逆に、インド史でも特定の地域だけにフォーカスして見るやり方は、非常にスッキリと歴史が頭に入って来るような気がする。著者の書く文章の易しさもあるが、デリー――ムガール帝国前期はアグラも含めて考えた方がいいかもしれないが――にだけフォーカスして歴史を捉えた本書は、とてもわかりやすい1冊にまとまっていると思う。僕らはデリーに駐在して、そこに多くの遺跡があることをよく知っている。ラール・キラとチャンドニ・チョウク、ジャマー・マスジッド、フマユーン廟、クトゥブ・ミナールあたりがお決まりの観光スポットだと思うが、それがいつ頃できたのか、誰が造ったのか、どのような背景から造られたのかを知っておくことはデリー滞在を少しは奥行きのあるものにしてくれるだろう。また、フィローズ・シャー、サフダルジャン、ニザムディン、チラーグ・デリーといった地名の由来も、もっと早く知っていれば僕のデリー駐在生活ももう少し違ったものとなっていたことだろう。

出会うのが遅すぎた――そんな思いに駆られた1冊であった。

歴史を扱っている本だから、出版年が多少古くても、そこで書かれている内容はそれほど色あせているとは思えない。本書は2部構成になっていて、第1部は著者が初めて1952年にインドに渡航してバラナシ・ヒンドゥー大学に留学したところから、デリーでの日本語教師としての活動、その後のデリーでの遺跡発掘活動に至るまでの半生期である。第1部で特に貴重なのは、1950年代のデリーの街並の描写や写真である。かなりショッキングだったのは、車も人もいないコンノート・プレイスの写真とか、全くの原っぱだったキドワニナガル・イースト付近(今のリングロードのサフダルジャン病院の向いぐらいの場所)の写真である。グリーンパークの近郊も昔は一面の畑だったらしい。畑の中に、ローディー朝時代の墓の建造物がポツンと立っている。現在のこれらの地域がどうなっているかを知っているだけに、その激変ぶりはかなりショッキングだ。これらの写真を見ると、50数年でのインドの人口増の激しさを改めて痛感させられるし、果たしてデリーは生活しやすくなったと言えるのだろうかという疑問にも駆られる。

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《コンノートプレイスの変遷》
1950年代前半は、わが東京都同じく交通渋滞も今とはまるで違い、コンノート・プレィスの円形大ロータリーをはじめ、そこから放射線状に走る数々の主要道路の交通量もまだ少なく、どの道路の横断も楽だった。ついでに言うと、近頃は、車が少なかった昔がひどく懐かしく、自動車ことは都市の環境を破壊した元凶だという気持ちが消えない。ニューデリーでは50年代はもちろん80年代に入っても、大通りには赤青の点滅式信号機はほとんどなかった。インドの首都の景観を汚した最大の敵もほかならぬ自動車だと、私は今も信じている。(中略)ニューデリーは「ロータリーの町」とも言えるが、考えた挙句のこの道路交通システムは、昨今の自動車や各種車両の激増を予想しなかったもので、今ではかえって首都中心部の厄介なお荷物となってしまった感がある。(pp.91-92)
因みに、コンノート・プレイスという名前は、ボンベイの軍司令官だったビクトリア女王の三男プリンス・コンノートの名前なのだそうである。インド・トリビアということでちょい加筆。

そして第2部は、デリーを支配した王朝の変遷が描かれている。ここでわかった、言われてみれば当たり前の事実は、デリーは元から今のデリーような姿であったわけではないということだ。12世紀から13世紀の王朝の拠点は今のメロウリーの辺りにあり、だからクトゥブ・ミナールもそこに建造された。13世紀後半になると、メロウリーから少しヤムナ川方面に行ったところにあるトゥグルカバード砦当りが中心地となっていく。そして、14世紀半ばのトゥグルク朝フィローズ・シャーの治世になると、新都フィローザバードが今のコトラ・クリケットスタジアム南隣にあるコトラ遺跡の辺りで建設される。そして、ティムールのデリー侵攻、サイード朝、ローディー朝を経て、1526年に、ムガール首長のバーブルがパニパットでローディー朝軍を破り、ムガールの影響力が強まっていく。ムガール5代皇帝シャー・ジャハーンの頃(1628-57年)にデリー首都圏はコトラのさらに北方に拡大され、ラール・キラ王城、ジャマー・マスジッドが造営され、新都は「シャージャハーナバード」と呼ばれた。そして、南方の古い城砦と北のシャージャハーナバードの間に、新都心が造営されるのは20世紀に入ってからである。エドウィン・ルティエンスとハーバート・ベイカーという2人の建築家が策定した新都心造営計画は、今もデリー滞在者を混乱に巻き込んでいる渋滞の素「ラウンドアバウト」を幾つも設けたモダンな設計となっていたが、古くから残されている歴史的建造物の保存にも十分配慮が行き届いているのは大きな特徴だと著者は指摘している。
 特に私の興味を引いたのは、新都心建設の予定地域に残っていたサルタナットやムガル期のさまざまな建造物の保存に、関係者が十分な注意を払った事実である。このことは、今日でもニューデリーのロータリーや小公園の中に、巧みに遺跡を残しているという事実からも窺える。(中略)たとえば、シェール・シャー造営のプラーナー・キラをはじめ、フマーユーン廟やフィーローズ・シャー・コトラの遺跡群、あるいはローディ公園の墓建築群などは、新都の東部地域の都市空間の形成や緑地造成のなかに巧みに取り入れられている。(pp.223-235)

以上、長々とご紹介してきたが、これからデリーに住まわれる方は、中古であっても本書を1冊携行されることをお勧めする。デリーの見方が相当変わるし、どなたか来訪者があって市内を案内するような事態になった時に、蘊蓄をたれるのに十分な情報が収められている。ことデリーだけに関する限り、『地球の歩き方』よりもはるかに有用だと思う。
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あんちゃん

ご訪問ありがとうございます。
by あんちゃん (2010-12-11 17:25) 

liu-gotoo。

これから仕事で、インドに行くことが
増えてきそうなので、是非参考にさせていただきます。

by liu-gotoo。 (2010-12-12 00:54) 

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