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『インド-グローバル化する巨像』 [読書日記]

インド―グローバル化する巨象

インド―グローバル化する巨象

  • 作者: 堀本 武功
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
21世紀に入ってインドは急速に存在感を増しつつある。特に高い経済成長率を支えているIT革命は世界的に注目の的であるが、その一方で農民の自殺者が増え、貧富の差が拡大しているといわれる。グローバル化の中でインドはどのように変わりつつあるのか。急成長する経済の実態、政治・外交・軍事・社会の変化、日本との関係を基本的なデータに基づいて検証しながら、インドの未来を探る。現代インドをトータルに描く入門書。
引き続き来週も職場の比較政治経済制度勉強会でインドが扱われることになった。しかも今度は僕が報告者であるため、読んだ論文について発表用のレジュメを月曜の勉強会に向けて作らなければならない。今週末も引き続き論文を読むのに充てる。少し行事が立て込んでいるので相当大変だ。

先週読んだ絵所秀紀著『離陸したインド経済』からの続きで、今週中に別の本を読んだ。絵所教授の著書でも引用されていた本だし、著者の堀本教授とは面識はないが、僕がデリーで一緒に働いていた非常勤スタッフのJさんが時々インドの政治経済情報や新聞・雑誌記事を提供していた相手が堀本教授であったので、教授の名前はよく聞かされていた。また、堀本教授がインドに来られる時には、主要訪問希望先のアポ取りを始め、Jさんは受入れのロジを相当やったと僕に話してくれたことがある。堀本教授とJさんの付き合いは僕とJさんとの付き合いよりもずっと長い。Jさんが提供していた情報が堀本教授によってどのように加工され、翻訳されたのかを知るには、丁度よい本だと思う。

ただ、読んだ感想を述べると、後から発刊された絵所教授の著書の方が分析が深いという気がした。後から出た本だから前に出た本を越えて新たな付加価値がないといけないというのは当たり前のことなので、これ自体は仕方がない気はするが、引用されている文献の殆どが日本語のもので、インド国内の政治経済学系の論文の引用があまりにも少ないところに物足りなさはは感じた。堀本教授は政治学の方がご専門だけに、参考になるところはあったことはあったのだが…。

1.脱植民地主義(ポストコロニアリズム)について
本書では、独立後のインドの歩みを大きく2つの時期にわけ、前半期(独立直後~1990年)と後半期(1991年の経済自由化以降)で整理しているが、ここでの僕の関心事項は英植民地政策が構築したインド支配体制「ラージ」からの脱却を課題とした前半期の方のことである。後半期の話は、近年にわかに増えて来ているBRICs(新興市場国)としてのインド礼讃本の中で再三書かれている。本書は、この前半期、政治面では英国時代の制限的な民主主義から脱して、民主的体制が創出されたが、国家体制を維持する観点から、ラージの中核的な統治機構(官僚制、軍隊、警察機構等)は独立後も手つかずで存続させたとし、経済面では、宗主国である英国に奉仕する植民地経済から富の平等な分配を図る国民経済を目指し、そのために社会主義的な経済運営を試みたとする。社会面では、植民地統治策の特色だった分割統治政策(宗教、人種等によってインド人を分断し、政治レベルでも相互対立を煽る「コミュナル政策」)を全面的に否定し、政教分離の「セキュラリズム」の浸透を図った時期だとする(p.5)。

またこの時期のインドで使用されたスローガンは「平等」であり、これを具体的に表現する形で社会主義やセキュラリズムは謳われた。国民統合を実現し、国民国家としての「インド」を形成するには、宗教問題は大きな課題だったが、インドでは特定の宗教を優遇せず、政治と宗教とが相互に介入しないセキュラリズムが謳われ、ヒンドゥー教徒が大部分を占めるにも関わらず、ヒンドゥー国家は名乗らず、各宗派を平等に扱うとし、また言語政策的にもヒンディー語を公用語と位置付けつつも、州に地方言語を州公用語として選択する権限を与えた。「人々を等しく取り扱うという平等原則によって宗教、人種、言語をこえたインド人ないしインド国民の形成をめざしたことは、マルティ・エスニックな国家インドにとって、「国民国家(ネイション・ステイト)」の建設に向けた壮大な実験だった」(p.56)と著者は述べている。

コミュナリズムを排して国民国家の建設を目指すというのはアフリカでも植民地独立後各国の政治リーダーが最も頭を悩ませた課題だったと思うが、言語政策を含めた多くの政策課題で中央よりも州の決定権限を強めることにより、民族や宗教の多様性から来る紛争のリスクをコントロールできたところに、インドとアフリカの違いを感じる。あくまで僕の感想だが。

2.インド政治の支持基盤について
本書では、先ず独立から1960年代頃までのインド政治が、独立運動の中核でもあった都市部の上位カーストの弁護士、ジャーナリスト、教師、それに農村部における富農などのリーダーによって運営されたエリート政治だったと評している。ネルー首相が率いた当時の国民会議派は、エリート政治を代表する政党だった。社会主義型社会の建設を目指した以上、インドでも土地改革は必須の課題だったと考えられるが、この改革は不徹底に終わっている。会議派のリーダー層は資本家や地主などの出身者であり、地主層が支配する農村が重要な支持基盤だったため、地主層の利益を大きく損なうような政策は実行できなかったのだという(p.33)。

ところが、1970年代になるとエリート政治は大衆政治へと変化を見せる。1960年代末からの緑の革命の成果として経済力をつけた地方の中農や小農などの低位カースト層が、70年代になると国民会議派に代わる政治チャンネルを求めるようになり、多くの地方政党が登場してきた。さらに1980年代には、低位カーストの動きに触発された不可触民などの経済的最下層が大挙して政治プロセスに参加するようになり、大衆政治が本格化したという。象徴的なのが1984年結成の大衆社会党(BSP)、不可触民を支持基盤とし、現在の党首はマヤワティUP州首相だ。

こうした変化に対して、国民会議派は、機能不全に陥りつつあったエリート政治に見切りをつけ、地域・階層に関わりなく包括的・横断的にアピールできる「ヒンドゥー」スローガン(Hindu chauvinism)を使用することによって勢力維持を図ろうとした。本書では明示的には書かれているわけではないが、そういうコンテキストでいえば、1980年代にインディラ・ガンジー首相の暗殺に繋がったシーク教徒との対立や、急進的なヒンドゥー原理主義者の動きに対して、国民会議派政権の制御が利かず1992年のバーブリー・モスク襲撃破壊事件が起きてしまったという事態も理解できる。このスローガンの使用は、会議派の思惑を超えて、独立以来抑えられてきた宗教対立を顕在化させたともいえる。そして、ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げたインド人民党(BJP)のような政党の勢力伸長を許したのである。(以上、pp.60-61)

こうして、「社会主義型社会の建設」「ヒンドゥー」といった有効なスローガンを使い果たしてしまった国民会議派にとって、有権者にアピールできる切り札は、1991年以降は経済自由化しか残されていなかったという背景がありそうだ(p.63)。

3.日本の繊維産業はインド棉に支えられた
本書の第4章「日本とインド」は、ボリウッド映画の話題まで登場する纏まりのあまりない内容になっているが、所々に重要な話のネタがちりばめられている。その例が明治時代の日本の近代化とインドとの繋がりである。
 明治政府は富国強兵と殖産興業を掲げて日本の近代化を図り、綿工業は産業の中核として日本の経済発展を実現させる原動力となった。この綿工業発展を支えたのがインド原綿であった。1892(明治25)年には大手紡績の原綿消費量の半分を占め、「日本綿業資本が急成長し、第二次大戦前に世界最高の水準に達するのは、実にインド綿の輸入」によってその礎石が築かれたとされる。その後、日本製綿製品が大量にインドに輸出されるようになった。インドは日本の近代資本主義経済の発展に大きく貢献したのである。(p.102)
今でもムンバイのコットン取引所に行くと、ニチメンが100年以上前に建てて今や閉鎖されてしまったビルが敷地内に残っている。なんでそんなに歴史があるのか、1年前にコットン取引所を訪問した際にはよくわからなかったのだが、本書を読んでピンと来た。この取引所で調達された綿花が日本へと輸出されていったのだ。
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