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『新書アフリカ史』 [読書日記]

新書アフリカ史 (講談社現代新書)

新書アフリカ史 (講談社現代新書)

  • 作者:宮本正興、松田素二 編
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/07/18
  • メディア: 新書
内容説明
人類誕生の大陸に展開した躍動の歴史を描く五大河川流域に繁栄した産業・文化圏と他大陸交渉のダイナミズム。植民地化による近代世界システムの経験から独立、現代化への挑戦。新たなアフリカ像構築の試み
本書が1997年に発売された当時、「こんな分厚い新書、いったい誰が読むんだ」と、出版社のことを鼻で笑ったことがあるのをよく覚えている。アフリカの歴史に興味なんかある奴が日本にどれくらいいるのだろうか、しかもこれだけ分厚い、たぶん講談社新書史上最高の分厚さで1500円もする新書を買おうとする気がある奴がどれくらいいるのか、正直なところ怪訝に思っていた。まさか自分が10年以上後になって必要にかられて買って読むはめになるなどとは夢にも思わず…。

本書のことは随分前から「読書メーター」上で「読書中」のカテゴリーに掲載しておいた。正直なところ、通読するような性質の本ではないし、今とりあえず必要だったのは出張で行ったケニアの歴史、それも英国植民地になって以降の歴史に過ぎないので、拾い読みした上でこの記事を書いている。参考になったかといえばなったような気もするが、出張にあたって直面していた議論はもっと深遠なものだったので、物足りなさも感じた。一般論で言えば、本書ぐらいの理解でちょうどいいのではないかと思うが。

本書によれば、ヨーロッパ来襲前夜のアフリカは、「停滞的で閉鎖的な部族社会」ではなく、実は「壮大でダイナミックな地域ネットワークと民族複合文化」を形成していたと述べている(p.279)。そこから欧州諸国の侵略が始まる。19世紀末から20世紀初頭にかけてのケニアには白人入植者が入ってくる。植民地政府が、東アフリカには広大で肥沃な無人の地があると宣伝したからだが、1902年には正式に「王地条例」を発布し、ケニア中央部の広大で最も肥沃な農業適地を英国王の土地と一方的に宣言し、アフリカ農民から巻き上げたという(p.309)。この地に入植してきたのは英国の没落貴族や没落農民だったらしい。多くはお金に困ってやって来たが、彼らは自分では働かず、アフリカ人を村から駆り出して使役しようとしたらしい。そこで植民地政府はアフリカ人使用人に対して人頭税を導入する。白人入植者からは税金が徴収されず、人頭税は雇われるアフリカ人農夫の賃金に課せられる形がとられたため、アフリカ人にとっては低賃金に抑えられることになる。税金が導入されると、それを効率的に徴収する制度が必要となるため、こんどは行政首長制も導入し、もともと首長など存在しなかった無頭制の社会に、無理やりチーフやアシスタント・チーフといった役職を持ち込み、「原住民による原住民支配」を装おうとした(pp.309-310)。

それでもアフリカ人農民は、白人農園主と比べてトウモロコシ生産等で成功を納めるケースもあったようだ。そうした彼らが次にコーヒー栽培にも進出しようとしたところ、これに反対したのも白人入植者であった(p.313)。

こうした英国の植民地支配のことを、繰り返しになるが「間接統治」と呼ぶそうだ。
 間接統治方式とは、現地の支配者・支配機構(伝統的首長層)をそのまま利用して住民を統治する制度を言う。伝統的首長層を(住民がそう認めているかどうかは別として)住民の支配者としてイギリスが認め、アフリカ人住民をアフリカ人首長層が支配し、イギリス植民地行政官はその監督にあたるというきわめて巧妙なやり方である。地域の伝統や習慣に不慣れなイギリス人行政官よりも伝統的首長層の方が住民の当地はスムーズにいくであろうし、何より直接統治に比べて財政面・人材面でかなりの節約ができる。(pp.316-317)


途中の経緯は省くが、ケニアに滞在していてよく話が理解できなかった1950年代の「マウマウ」団の反乱の話から、ケニア独立に至るまでの経緯も参考になった。そして問題は国民国家(ネイション・ステート)の建設に繋がっていく。

1940年代後半の楽観的な近代化論では、人間の共同体は「伝統的トライブ(部族)」から「近代的ネイション」に発展していくとされており、アフリカの民族も今は「トライブ」の段階だが、近代化・欧米化が進めばアフリカの「トライブ」は解体され、「ネイション」という1つの同質的な共同体が出来上がると考えられていたらしい(p.493)。こうした考え方にたつと、アフリカの民族集団が要求していた分権化などは、国家の統一を阻害する「トライバリズム」としてマイナスの評価しかされてこなかった(p.495)。ところが、「トライバリズムを排し、ネイションを創ろう」と叫んだアフリカの指導者たちが実際にとった行動は、一方で同質性と中央集権主義を強調しながら、他方で民族主義を強化するというものだった。ネイション形成を訴え個々の民族性を否定し弱体化させる政策をとっている指導者たちが、他方では自らの権力基盤を維持し少しでも多くの権益を得るために、自己の出身民族・地域に属する民衆の民族アイデンティティに訴えかけ、結局、支配側・被支配側両方の民族意識を煽り立て、ネイションの形成を阻害してきた(pp.496-497)。中央政府が特定の民族もしくは地域出身者によって動かされており、政権の独裁色が強まっていくほど、支配者の自民族依存が高まっていくという矛盾する事態に陥っていった。

では、こうした、民族の多様性が国民国家の形成をこのまま阻害していくのかという点については、本書はあまり明示的な見解を示していない。実はそこが知りたいところであった。おそらく執筆者の中にも様々な見解があろうかと思う。楽観論も悲観論も両方あろう。そういう見解を示して欲しかったなと思う。

ただ、それらしいものはある。絶望的な状況の中でもしたたかに生きているのがアフリカ人なのだというくだりである。
 このように住宅の確保、仕事の世話から金融、福祉、保険に至るまで、出稼ぎ民自身によってインフォーマルな互助制度が創り出されている。本来ならば政府が公の資金を使って行うべき領域を、彼らは自分たちの知恵と実践でカバーしているのである。マクロで構造的な環境は、確かに絶望的である。しかしその中で、アフリカ人はこうしたセルフヘルプ能力をいかんなく発揮して日常の暮らしを営んできた。この暮らしの中で培われた微細な実践の積み重ねこそが、アフリカ社会を取り巻く絶望的な状況を切り開く原動力となっているのである。苦悩するアフリカにおける希望の一端をそこに見出すことができる。(p.549)
どうも僕は国を擬人化して政府はいかなる政策をとるべきかを論じる「空中戦」が苦手で、このところこの手のスケールが大きすぎる議論にはついていけないものを感じているのであるが、現場の人々はもっとしたたかで逞しいのではないかという気はしている。もう10年以上前の話であるが、ネパール・カトマンズのスクワッター居住区を訪問して聞取り調査を行なった際、そうした地域では出身地がどこかとか、所属するカーストが何かといった属性が他と比べてあまり意識されておらず、むしろ同じコミュニティの中で対外的に同じ利害関係を共有して連帯意識の方が強いという話を聞いた。同じことはブラジルの「ファベーラ(スラム)」でも質問したら「ある」と言われた。話が大きいのは苦手だが、アフリカにおいても、地方から流入してきた都市低所得住民の間では、所属する民族性よりも、共通の脅威に対抗する連帯意識の方が強いのではないかという気もしている。(勿論、大統領選挙などが近くなってくると、民族的なアイデンティティの方が強く意識されがちであるというのはあるだろうが。)

そういう、個々の民族性を超えてコミュニティで連帯を強めているような事例をご存知の読者の方がいらしたら、是非教えて下さい。暗い話よりも、明るい話の方が知りたいです。
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