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『民主主義がアフリカ経済を殺す』 [読書日記]

民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実

民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実

  • 作者: ポール・コリアー
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2010/01/14
  • メディア: 単行本
内容紹介
最貧のアフリカ諸国では、深刻な危機がなんと民主主義によって増幅されている。先進国の市民が一様に信じる民主政治の護符「選挙」は、いかにアフリカ社会を破壊し、疲弊させているか。世界的に評判を呼んだ『最底辺の10億人』の著者が、アフリカ大陸における驚くべき逆説を剔抉する。
出張に携行した本を続けて紹介する。こちらの方を先に読み終わったのだが、かなり重たいテーマだったので、しっかり消化してブログで記事をまとめるには少しばかり勇気も要った。ただ今海外出張の現地滞在最終日の早朝だが、夜なべ仕事をして出張報告を書き上げたところ、少しばかり目も冴えているので、今のうちにまとめてしまおうと思う。

元々本書は図書館で借りて読もうとしたものだが、出張に行っている間に読むことにして書店で1冊購入した。難しい本は途中でマーカーでも引いておいて後から復習しないと、記憶にもなかなか残りにくい。

それで本書の内容要約だが、タイトルがそのままなので多言を要しないと思う。ただ、民主主義がダメだからといってそれじゃこれらの国々はどうしたらいいのかというところについては少しばかり補足も必要である。先ずは問題の所在についての著者の見解だが、本書のまとめとなっている第10章の冒頭にある「最底辺の10億人の国々が直面している構造問題」の記述が最もコンパクトだと思うので、引用してみたい。
彼らは「民族国家(ネーション)としては大き過ぎ、国家(ステート)としては小さ過ぎる」。大き過ぎるというのは、そうした国は集団の行動に必要な求心力が欠けているからだ。小さ過ぎるというのは、公共財を効率的に生産するために必要な規模に満たないからだ。一部の公共財は民間でも供給することができ、それらを欠いても国家は十分機能できる。(中略)しかし、民間活動に置き換えられない公共財もある。安全保障やアカウンタビリティーはそうした公共財だ。(pp.302-303)

こうした国々の多くは多民族国家である。これまでの先行研究の中には、民族の多様性が経済成長の足枷となっていると指摘するものがあるが、著者による考察の中でもこれは支持されており、民族の多様性は社会の連携をより困難にし、所得水準が低い場合はその悪影響が非常に強く、社会の繁栄を妨げる程度にまで達している、逆に多様性の好影響が現れるのはより所得の高い国に限られると述べられている(pp.84-85)。

民族多様性が高い国で経済成長の足枷となる要因といったら幾つか考えられる。先ず、民族多様性が高い国では、政治的リーダーは通常、民族カードを切り札として、自分の出身民族による権力基盤を築こうとする。その結果、そうした政治的リーダー(Big Man)の庇護が届く範囲は必然的にせまくなり、その民族集団の枠を越えるものとはなりにくい。権力基盤が狭いほど、国家経済を築いて万人の便益に尽くすよりも、権力維持のために国家経済を略奪し、その収益を自分の民族集団に還元しようとする動機が高まると見られている(pp.85-86)。

また、こうした国では選挙制度も機能しにくいという。
選挙には、政府に改革を実施させる刺激となる可能性もあるが、一方で政府と劣悪なガバナンスへの道に引きずり落とす可能性もあったのだ。どちらの効果が優位に立つかは、部分的にはその社会の構造的特徴に負い、またその政治形態の設計にもよる。選挙がうまく機能しやすいのは、より人口が多く、民族的分裂がより少ない社会だ。選挙はまたチェック・アンド・バランスの効いた政治体制のなかで、政府の権力に対してより有効に働く傾向があり、選挙の実施が適切なところではそれはとりわけ顕著だった。この証拠を裏返せば、適切な選挙規定がない、民族的に分裂している社会では、選挙が改革を加速するどころか、かえって遅らせることの方が多い。(中略)民主化の前進が、ほとんど確実に経済政策とガバナンスの改革を遅らせてきた。(pp.60-61)

一方で、政治の側が一方的に悪いのかというとそうでもない。選挙民の方も、政権党がいくらいい経済運営をしていても、選挙となると自分と同じエスニックグループ出身の候補者に投票する傾向がある。
有権者のなかには現職の実績にかかわらず、民族的アイデンティティーによって支持・不支持を決める者もいる。最底辺の10億人の国々では、アイデンティティーが大半の投票の基盤だ。彼らの社会は概して、競合する民族アイデンティティーごとに分裂しており、その結果、政治的忠誠を組織する上で民族性は圧倒的な、そして最も容易な基盤となっている。その問題点は、忠誠が課題ベースではないため、候補者の実績ベースでもないことだ。投票は単純に競合するアイデンティティー同士のブロックごとに固まっている。大きな票田ごとに支持または反対で凍結してしまっており、結果的に現職の政治家の得票に実績はあまり敏感に反映されない。つまり政治家の働きぶりの良し悪しに左右される票は少ない。国民は政治家の業績を判断するための情報を欠くばかりか、その情報の判断に基づいて投票する者も比較的少ないのだ。(pp.35-36)

こんなことばかり書いていくと、民族多様性が高い低所得国は箸にも棒にもかからないという印象しか与えない。一体どうしたらいいのか。これについての著者の考察はまだ発展途上で本人も苦しんでいるという印象を受けるが、苦し紛れとはいえ幾つかの糸口を述べてもいる。

その1つは、冒頭要約でもふれた民間セクターの役割である。
幸い民族の多様性にも一筋の希望はある。公共財の提供に対する多様性の悪影響は、多様性が民間の経済活動にもたらす利点により相殺される。(中略)基本的に多様性によってチームの生産性があがるのは、チームのスキル、知識、見識などが増大し、それが問題解決に役立つからだ。多様性の高いチームは一緒にやっていくことは難しいが、達成能力はより高い。(p.82)
民族多様性は最近の僕自身の取り組んでいるテーマの1つなのだが、最近、明示的に「民間セクター」とは言わないけれども「多様であることは社会にとってプラス」だとする有識者の見解を直接うかがう機会があった。また、競争を伴う民間の経済活動がエスニックグループ間の対立を乗り越える事例もある。インドのIT企業では低カースト出身だからといって採用が不利になるケースは少ないと聞いたことがある。出身カーストが低くても能力が高ければ採用される。そうでなければ競争に生き残れないという経済論理だ。だから、本書で書かれている指摘にも親近感が湧く。

冒頭要約ではこうした国々が「公共財を効率的に生産するために必要な規模に満たない」という点も指摘されていた。この点について、著者は国際社会の役割に期待を寄せている。断わっておくが、ここで言う「国際社会」というのは援助機関も含めた先進国ドナーのことだけを言っているわけではない。こうした途上国の周辺の国々のことも含む。
公共財の一部は電力や国際輸送ルートといった、協調行動が長期間不足しているために慢性的に供給が追いついていない物質的ニーズだろう。これらの供給は従来想定されている援助の役割だ。しかし、欠落している公共財のなかで重要なものは、新たな手段を必要としている。国際平和維持活動と越境型安全保障は、政治的には難しいが、効果はある。(p.306)
今僕が滞在しているアフリカの国では、周辺諸国も含めて物流の円滑化に対して日本が協力していると聞いたし、越境型インフラの整備に対する支援も援助でもっと進められることだろう。ただ、援助国・機関の役割は確かにあるにしても、域内諸国間で物流網とインフラ整備の枠組みについてコンセンサスがある必要はある。また、越境型安全保障についてもそうだろう。長年ASEANが取り組んできたものでもある。

本当は、こうした越境型安全保障や国際平和維持活動を通じた政府のアカウンタビリティの実現については、ゲーム理論を用いたもう少し面白い記述が展開されているのだが、それを紹介するにはスペースもないし、僕の理解能力では足りないので、本書紹介はこれぐらいにしておく。

今後も何度か目を通すであろう。今後も研究が進んでいくと思うので、本書は現時点でどこまでわかっているかを確認するのには役立つ。なにせ平和構築分野では世界的に著名な経済学者の著書である。このテーマでどのような先行研究を押さえておけばいいのかも参考になるだろう。(僕にはちと難しすぎる気がするが…)
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コメント 1

mika_m

経済学の視点からアフリカの民主主義を分析した興味深い本なので、私も読みました。私は経済がバックグラウンドなので共感する部分も多くあり、友人にも勧める一冊です。
by mika_m (2010-11-08 20:22) 

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