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『ラーム神話と牝牛』(2) [読書日記]



ラーム神話と牝牛―ヒンドゥー復古主義とイスラム (これからの世界史)

ラーム神話と牝牛―ヒンドゥー復古主義とイスラム (これからの世界史)

  • 作者: 小谷 汪之
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/11
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
聖地アヨーディヤで発火した、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の「宗教戦争」は、今一応鎮静化しつつあるように見えるが、いつまた再燃するか予断を許さない。この「宗教戦争」の歴史的背景を19世紀中葉にまで遡って追尋する。
前回ご紹介しているように、本書は1992年12月のバーブリー・モスク襲撃破壊事件から約1年後に書かれている。その割にはアヨディア問題の歴史的経緯について19世紀に遡り、ヒンドゥー、ムスリム双方の起訴内容と裁判の判例等を相当細かく追いかけており、日本語でこれだけの情報にアクセスできるというのは驚きだ。ただ、本書発刊のきっかけがアヨディア問題だったとしても、実際のところ本書の動機はなぜヒンドゥーとムスリムの対立がこれだけ深まっていってしまったのかというのは、アヨディアだけではなくいろいろな伏線があり、それらも合わせて理解していくことが必要だという点にも本書は気付かせてくれる。

著者によれば、両教徒の対立は古くから激しかったというわけではどうもないらしい。コミュナリズムという形で、両教徒が、自分がインド人である以前に、ヒンドゥー教徒ないしイスラム教徒として自覚を深めていったのは19世紀以降の話らしい。
 アイデンティティというものが、自らを「他者」とは区別された、ある特別な存在として意識するものである以上、アイデンティティの形成にとっては、ある「他者」の存在が必要不可欠である。「他者」を想定しない「自己」など存在し得ないのであるから。集団的アイデンティティの場合には、それはある人間集団を自らの集団とは異なる存在として、自らの外に排除することによって形成される。(p.44)

では、ヒンドゥー教徒のアイデンティティとは、最初から「他者」としてムスリムを想定していたのかというとそうではなかったらしい。ヒンドゥー教徒のアイデンティティは、著者によると、英国植民地支配下のキリスト教宣教師との対話の中で形成されてきた側面が相当あるらしい。
 このようにして、ヒンドゥー教の偶像崇拝を「理性的」に説明し、「合理化」しようとする努力が、キリスト教との出会いのごく初期の段階から、すでに始められているということは注目に値する。「近代的」、「合理的」な思考に立脚するプロテスタンティズムからのヒンドゥー教批判に直面して、ヒンドゥー教の側も、同じ「合理主義」の土俵の上で、自らを弁明することをよぎなくされたのである。しかし、偶像崇拝についての、このような「理性的」な説明は、当時の一般のヒンドゥー教徒の宗教感情からはほど遠いものだったと言わねばならないであろう。(p.67)
キリスト教の宣教師たちは、キリスト教のみが唯一真実なる宗教だ、ヒンドゥー教は邪教だと主張しようとして、ヒンドゥー教の経典も読み、そして論理的にその矛盾点を突く努力を相当に重ねていたらしい。そうした宣教師の日記も本書では紹介されているが、読んでいるとかなり腹が立ってくる。キリスト教徒が独善的だというのは今までも時々感じることがあったが、そうした「他者」から身を守ろうとする時、自分が何に帰属するのかという意識は当然高まるだろう。当時のヒンドゥー教徒は、「キリスト教も良い宗教だけれど、ヒンドゥー教も悪くはない」という態度を取っていたのだ。

そうしたヒンドゥー教徒の宗教相対主義の立場は、対ムスリムでも同様だった。
 さまざまな宗教が共存してきたインドの社会は、宗教的にルーズといえばルーズだし、寛容といえば寛容な社会であった。何か犬猿の仲のように思われがちなヒンドゥー教徒イスラム教の関係にしても、少なくとも、19世紀後半になるまでは、けっしてそんな関係ではなかった。ヒンドゥー教徒がムハッラムのようなイスラムの祭に参加して、一緒に大騒ぎしたり、逆にムスリムがカンドーバーというヒンドゥー土着神の聖地ジェズーリーに巡礼に行ったりするなどということはごくあたりまえのことだったのである。ムスリムなどが、その死後ヒンドゥー教の神としてまつられるということも珍しいことではなかった。(p.57)

ところが、キリスト教宣教師から論破されかかったヒンドゥー教エリートのバラモンが最後に見出したキリスト教徒と英国人の唯一の弱点が「生き物を殺してその肉を食べる」ことだった。
生き物を殺してその肉を食べるような残酷なことはしないというのが、ヒンドゥー的文化あるいはヒンドゥー的価値のシンボルと化して、インド社会の実態から遊離して一人歩きしはじめた。それは、イギリス人による植民地支配という逃れることのできない現実が生み出す精神的重圧をはね返すための「虚構」というべきものであった。この「虚構」をとおして、現実における敗者インド人(ヒンドゥー教徒)は、倫理性においては勝者イギリス人に勝ることを主張し得たのである。こうして、生き物を殺してその肉を食うようなことはしないヒンドゥー教徒という、価値的あるいは文化的なアイデンティティが形成されていったのである。(p.77)

ただ、これ自体はヒンドゥー教徒でも最上位カーストのバラモンの間のことかもしれない。しかし、バラモン以外のヒンドゥー教徒も、イギリス人は牝牛を殺してその肉を食べているという点に反発を覚えた。不殺生の規範を守るバラモンに経緯を払いつつ、肉食自体を忌避する人々が下位カーストのヒンドゥー教徒の間でも広まった。19世紀後半には、バラモンを真似て、肉食を忌避するカーストが増えたらしい。この、不殺生が牝牛屠殺への反感という形で民衆に広まったことが、20世紀に入って庶民にとってのヒンドゥー・アイデンティティの価値的基盤の形成に繋がっていった。そうして、ムスリムが巻き込まれていくことになったと著者は見ている。

牝牛屠殺に対するヒンドゥー教徒側の忌避意識の高まりに対し、ムスリム側からも「お囃子」に対する反発心という形で「他者」としてのヒンドゥーという意識付けが出来上がっていった。「お囃子」というのは、ヒンドゥー教の祭礼における山車行列におけるお囃子のことである。ムスリムが静かにお祈りしているモスクの前を、賑やかな楽器演奏とともに練り歩くヒンドゥー教徒の行列がムスリム側の怒りを誘い、20世紀初頭には両教徒の衝突が頻発するようになった。

今のインドの宗教問題を作ったのが英国の植民地支配とその時期に行なわれていたキリスト教宣教師による布教活動だという点は僕にはとても新鮮な説明であった。英国にしても、キリスト教とにしても、世界中で問題の種を播いたのが自分たちだというところはもっと自覚すべきだと感じる。イスラム教が悪魔の宗教だなどといってコーランを燃やしたりする以前に、自分たちの宗教が持つ危険な思想に彼らは気付くべきだ。


最後にアヨディア問題にもう一度立ち戻ってみたい。

著者によれば、現在のアヨディアが「ラーマーヤナ」に出てくるアヨディアと同一であるという、現代のヒンドゥー原理主義勢力が自明としている前提は、インドの多くの歴史家や考古学者の間では、控え目に言ってもかなり疑問視されているのだという。そもそも、ヒンドゥー原理主義者が主張している、「バーブルまたはアウランゼーブ帝によって破壊されたラーム誕生地寺院」というものは、決して壮麗なものではなく、「わずか5×5×4インチの、土製の、祭壇ともいえないほど小さな台」(p.240)に過ぎなかったという発見もあるらしい。

しかし、万が一今後さらに考古学的調査が進んでアヨディアが「ラーマーヤナ」のアヨディアと同一であるという証拠が出てきたとしても、「歴史には時効があるのか」の点について、我々、というかインド人は考えるべきだとして締めくくっている。
 ロミラ・ターパルらが公開書簡で提起した問題の中に、批判者たちが完全に無視した問題が1つある。それは「宗教的聖地の回復要求の論理における時間制限」という問題である。ヒンドゥー教徒がムスリムによって破壊されたと主張する寺院が仏教やジャイナ教の僧院を破壊して、その上に建てられたものだとしたらどうするのか、さらに、その仏教やジャイナ教の僧院自体、先住民のアニミズムの神域の上に建てられたものかもしれない。そうだとしたら、「聖地回復」の要求はいったいどこまでおしすすめられるべきなのか。「我々は過去をどこまで遡って行くのか」。ロミラ・ターパルらが提起したこの問題は、一般化して言えば、歴史に時効はあるのか、という問題である。この問題こそ、ロミラ・ターパルらが提起した論点のうちで、本質的にはもっとも重く、難しい問題であろう。ところが、批判者たちはこの問題をいっさい無視あるいは回避してしまったのである。それは、この問題を原理的に議論することが彼らにとっては都合の悪いことだったからであろう。(pp.248-249)

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