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『旅する巨人』 [宮本常一]

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三

  • 作者: 佐野 眞一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: ハードカバー
内容(「BOOK」データベースより)
柳田国男以後、最大の功績をあげたといわれる民俗学者・宮本常一の人と業績を自筆恋文など発掘資料で追いつつ、壮図を物心両面で支えた器量人・渋沢敬三の“高貴なる精神”の系譜を訪ねる…。
先週末の出来事その2――この日は、三鷹市の「文化財市民協力員養成講座」2回コースの2日目が開催されたのだが、網野善彦『古文書返却の旅』の記事の中でもご紹介した通り、主催者側の意図と受講した僕の期待感との間に大きなズレを感じたので、最初から欠席することにしていた。そのせめてもの罪滅ぼしのつもりで、その日から読み始めたのが本日紹介する1冊である。

宮本常一については、7月頃から折を見てその著作を読むようにしてきたので、本書はその作品が宮本の生涯の中でどのような時期に書かれたものなのかを確認するという意味では有用だった。もう1つ本書に惹かれたのは、宮本について調べるうちに、彼も含めた日本の民俗学者のパトロンとして資金援助を惜しまなかった渋沢敬三という人物にも興味が湧いたからだ。これは今で言えば財団の研究助成のようなものだろうと思うが、細かい審査プロセスを経ずにいきなり引き出しから現金を取り出して無心に来た無名の研究者にもポンと餞別を渡す渋沢の太っ腹には感服する。渋沢敬三は言わずと知れた渋沢栄一の孫である。本書の良い点は、宮本の生涯だけではなく、渋沢の生涯も描き、そして2人の絆の強さを見事に際立たせているところだと思う。

さらに言えば、渋沢-宮本ラインからいろいろな人物が登場する。10年以上前に僕は川喜田二郎の『鳥葬の国』を初めて読んで非常に感銘を受けたのだが、川喜田もチベット探検の際に渋沢に資金援助をお願いしに行っている。歴史人口学者の速水融は昭和24年に月島の水産研究所内に設立された水産資料整備委員会研究員であり、同じく研究員をしていた宮本と古文書収集の旅を一緒にしている。もっと卑近な例では猿回しの村崎修二。テレビでも有名な方だが、今あるような芸術的な猿回しを練り上げるきっかけとなったのが宮本との出会いだったのだそうだ。そういう人物関係図でも付録でついているともっと本書も読みやすくなるかもしれない。それくらい多くの人物が登場する。

また、民俗学の祖といったらおそらく柳田國男だろうが、柳田民俗学と宮本の民俗学のどこがどのように違うのか、本書を読んでようやく理解ができたような気がする。本書を読むと柳田國男という偉人の意外な面も見ることになる。

さて、本書は近所のコミセン図書室で借りたものだが、読みながら、この本は宮本常一の著作を今後も読み続けるならば常に「宮本常一事典」として手元に置いておくのが適当であるような気がしてきた。宮本作品は今後も読むと思うが、その作品が宮本の生涯の中でどのような時代に書かれたものなのか、その背景を確認すると作品理解が進むと思う。文庫化されているようでもあるし、是非文庫版を入手したいと思う。

そんな中から幾つか印象に残っている記述を幾つかメモしておきたい。

先ずは、渋沢が宮本に出会って間もない頃に宮本に宛てたメッセージ―――。
財界でも学界でも中心に居てはいけない。いつも少し離れたところに居るべきだ。そうしないと渦の中に巻き込まれてしまう。そして自分を見失う」

日本文化をつくりあげていったのは農民や漁民たちだ。その生活をつぶさに掘り起こしていかなければならない。多くの人が関心をもっているものを追究するのも大切だが、人の見おとした世界や事象を見ていくことはもっと大切なことだ。それをやるには、君のような百姓の子が最もふさわしいし、意味のあることだと思う」
(p.141)
それにしても、人生の師とも仰げる渋沢の教えを、ここまで愚直に実践した宮本というのは凄いと読み終わって改めて感じる。

次は、水産資料整備委員会時代の速水融が宮本について語っている箇所。このあたりの記述を読むと、宮本というのは稀代の優れたファシリテーターであったのではないかと僕には思える。
「宮本さんと一緒に能登の時国家に行ったときのことは忘れられません。宮本さんをみていて資料を出してもらうコツが、なるほどとわかった。宮本さんは相手が古文書をだしてくるとその場で読んであげるんです。常に相手の利益を考えているんです。調査でもそうでした。相手をすぐに自分の仲間と思わせてしまう。初対面の人でも百年の知己のように、真実を語らせてしまうんです。その取材のうまさには本当に舌をまきました。」(p.239)

これとも関連するが、宮本は柳田國男を筆頭とする既成の民俗学に疑問を感じ始め、そのことを『民俗学の旅』の中でも書いている。『民俗学の旅』については既にブログで紹介したこともあるが、その時には漠然としていてよくわからなかった柳田民俗学への疑問が、今回ようやく理解できるようになった。
〈実は私は昭和30年頃から民俗学という学問に1つの疑問を持ちはじめていた。日常生活の中からいわゆる民俗的な事象をひき出してそれを整理してならべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか。
 村を歩いて年寄りたちばかりでなく、中年の人も若い人も一番関心の深いのは自分自身とその周囲の生活のこと、村の生活のことである。民俗的な事象を聞くことについて喜んで答えてくれる人は多いのだが、その人たちの本当の心は夜ふけてイロリの火を見ていて話のとぎれたあとに田畑の作柄のこと、世の中の景気のこと、歩いてきた過去のことなど、聞かれて答えるのではなく、進んで語りたい多くを持っていることだった。
 まずそういうものから掘りおこしていくこと、そして生きるというのはどういうことかを考える機会をできるだけ多く持つようにしなければいけないと思った〉
(p.244)

究極の現場主義――そう思う。宮本は58歳で武蔵野美術大学の教授になるまで、定職と呼べるものに就いたことがない。妻も子供もいたが、妻子を周防大島にある宮本の実家に残し、日本中(特に西日本)の村と言う村を歩き回った。道路も鉄道も今ほど整備もされていなかった昭和10年代から30年代にかけて、そうして歩き回ったそのフットワークの軽さは驚嘆すべきものである。そして、こうした膨大なフィールドワークに裏打ちされた宮本の知識は、初めて訪れた村や町であっても、おおよそそこの住民の年間所得がいくらくらいかを田畑を見てすぐに当てられるぐらいに研ぎ澄まされたという。村人以上にその村のことを知っていたりする。
 同じく生活文化研究会で何度も宮本の調査に同行した須藤護(現・放送教育開発センター助教授)によれば、宮本は日本のいたるところから講演を頼まれたが、同じ話をしたことは一度もなかったという。
「先生は講演の前にその村の周辺を必ず回る。それだけでその村の歴史と特徴をつかみ、講演でそれをズバッと切りだす。聴衆は自分ら以上に村のことを知っている宮本先生に驚き、たちまちファンになってしまう」
 宮本は風景の中から人間の営為と意志を鋭敏に読みとった。ホウレン草の畑をみただけで、宮本は酸性土壌にどれくらい灰をまいてアルカリ土壌に改良したか、たちまち言い当てた。それは調査の合間に島に帰り、実際に鍬をにぎって畑を耕した農民の強みだった。(p.325)
宮本はこうして歩き回る中で離島の地域振興にも尽力したが、その意図するところは地域に住む人々が主体的に取り組む内発的発展だった。確かに道路港湾整備や交通網整備といったその手段は一見すれば田中角栄の「日本列島改造論」と変わるところではないが、こうしたインフラ整備は中央が計画的に進める権力者側の論理ではなく、地域が自らの手で振興策に向けて努力する中で、その自助努力を支援するような公的支援を指向していたということができる。その対称性は、新潟県山古志村の振興策において鮮明に浮き上がっている。

いろいろな意味で何度も読み返してみたい1冊といえる。
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