『インドネシア-イスラーム主義のゆくえ』 [読書日記]
内容(「BOOK」データベースより)気付いたのだが、この記事は通算1900号なのだ。前日の流れからいって今日もヴァンダナ・シヴァにしようかとも思ったが、この記念すべき切り番の記事が前日の続編というのもどうかと思い、別のネタを持ってきた。
アメリカでの同時多発テロ事件から1年後の2002年10月12日、バリ島で大規模なテロ事件が起こり、インドネシア社会を震撼させた。インドネシアは世界最大のイスラーム教徒を抱える国家であるが、インドネシアのイスラームは比較的「穏健」だとされてきたからである。しかし、1970年代以降の世界的なイスラーム復興とイスラーム主義の潮流のなかで、インドネシアでもイスラームと国家、イスラームと社会との関係がさまざまな政治・社会問題として問われるようになってきている。果たして、インドネシアのイスラームはどこへ向かおうとしているのだろうか。
先日、僕が仕事で関わっている研究テーマの1つが「アフリカの民族多様性」であることを紹介した。他にも2つあるのだが、そのうちの1つは「東南アジアのイスラム」である。だから宮田律『現代イスラムの潮流』も読んだというわけだが、この本には東南アジアのイスラムについてはあまり書かれていなかった。
そんなわけで藁をもすがる思いで手にしたこの1冊。面白かった!著者の博士論文を出版用に改訂したものらしいが、こういう、ルポライターかと思わせる記述で博士号を出せる大学もあるのだなと感心もした。本書は基本的には4章構成になっていて、第1章「暴力とイスラーム」でジャマーア・イスラミア(JI)のような過激派の台頭の経緯を取り上げ、第2章「民主化と「穏健」なイスラーム主義」では学生の宗教運動(ダッワ・カンプス)と1998年に結成された漸進的イスラーム化を目指すイスラム主義政党「正義党」の台頭の経緯を取り上げる。「イスラム主義」とは、「真正」なイスラムを回復し、個人や社会さらに国家をイスラム化することで諸問題への解決策を見出すという政治的イデオロギーである。1970年代後半から大学キャンパスを中心に徐々に拡大し、スハルト体制下での急速な近代化と都市化に伴う社会矛盾や精神的な飢餓感を背景に、政治的な活動が許されない学生たちの代替的な活動として台頭した(p.165)。
第3章「左翼思想と伝統の再構築」は、イスラム主義の台頭がインドネシアの国民的な統一をより困難にすると考え、同じくイスラム団体や宗教教育機関を背景としながら、イスラム主義に対抗する運動を展開している「イスラム左派」について、1926年結成の同国最大のイスラム団体「ナフダトゥル・ウラマー(NU)」を中心としてその動向が紹介されている。イスラムと社会研究機関や青年闘争戦線のようにイスラム学校や村落部における草の根レベルの意識改革を重視するのがイスラム左派の特徴だという(p.122)。彼らは加速する自由市場化によって労働者や農民がさらに「周辺化」され「搾取」される事態を憂慮する。しかし、理想とする社会は旧来の左翼のようなプロレタリア革命ではなく、「市民社会」による政府のコントロールがなされている民主的な国民国家なのだという(p.123)。イスラムを社会や国家統合の唯一絶対の論理と考えるイスラム主義には反対するものの、イスラム復興の進行に抵抗しているわけではない(pp.130-131)。
そして第4章「ポップなイスラーム」では、前章までの政治社会運動とは離れて、社会一般にみられるイスラム復興現象-モスクや宗教学校、イスラム金融などの制度面でのイスラム化と、都市中間層のライフスタイルの変化と関連したイスラム的シンボル顕示の傾向について紹介している。
博論というからには、本書で設定されている仮説とは何なのだろうか。おそらくそれは、「イスラム主義の政治イデオロギーはインドネシア社会の規範と密接に結びついている」というところにあるのだろう。
それはインドネシアにおけるイスラームの「過激化」に警鐘を鳴らす、といったことではない。著者の関心は、急進派を含めたインドネシアのイスラームとムスリムであり、そうした宗教とインドネシアという国の政治と社会の関係である。少数の急進派のみに注目しても政治や社会の動態は分からない。(中略)暴力的な事件や急進派はイスラームとムスリムを代表するわけではないが、その他の諸集団や社会動向、歴史的背景と隔絶しているわけではなく、むしろ大いに関係がある。
「10・12」(註:2012年10月12日にバリ島で起きた連続爆弾テロ事件)後の地点からインドネシアにおけるイスラームを見直すためには、これまでほとんどのインドネシアや東南アジアの研究者に見過ごされてきたイスラームのグローバルな論理を十分に考慮に入れながら、インドネシアのイスラームをめぐる現象を分析しなければならない。イスラームをめぐるさまざまな運動や現象は、一方ではインドネシアの地域事情に根ざしたきわめてローカルな論理に基づいているが、他方では現代イスラーム世界全体に見られるグローバルな論理の影響下にある。このグローバルな論理はイスラーム発祥の地から遠く離れたインドネシアにおいて常に存在してきたが、20世紀後半になってはるかに重要になってきた。現代イスラーム世界におけるグローバルな論理とは、1970年代以降拡大してきたイスラーム主義である。すなわち目の前にある諸問題の原因を非イスラーム的な現実に求め、「真正」なイスラームを取り戻すことによって、個人や家族、社会や国家を改革し発展させようというイデオロギーである。(pp.12-13)
イスラム過激派の行動について、著者は、1990年代から現在に至るまで、イスラムが急に過激化したというわけではないと主張している。
インドネシアのイスラームが急に「過激化」したと考えるのは誤りである。インドネシアのイスラームをめぐる暴力は社会に、また国家との関係に内在している。現代における特徴は、国内的な要因で始まった暴力が、イスラームのグローバルな論理によって正当化されることである。そして、そうした論理が想定するイスラームの敵の打倒のための暴力は国際的に連動し、人や資金や武器が越境していくことである。(p.64)そして、インドネシアのイスラムが本質的には穏健であると断定することは不可能だとも述べている。穏健派を自称し、あるいは海外の研究者やメディアから「穏健派」とみなされちえるイスラム諸政党や大衆団体は、急進的で暴力的なイスラム勢力を批判せず、キリスト教徒との地域紛争には何ら解決策を示していないと指摘する(p.167)。
構成もわかりやすく、ポイントも押さえやすい本だと思う。インドネシアについては不勉強だから人物名や組織名、政党名など、読んでもすぐに忘れる固有名詞はかなりあるが、本書を読んで知りたかったことはそうした固有名詞ではなく、流れがつかめればそれでいいと思っていた。イスラムのグローバル化との関連での記述は意外と少なく、僕が「東南アジアのイスラム」と言った場合に想定しているASEAN各国のイスラム勢力の動向とか、各国イスラム勢力間での連携の実態とか、そういう点では少し物足りなさはあった。(JIが緩やかなネットワークであるというのはわかったけれど…)
記事1900号、おめでとうございます(^O^)/
私は不勉強で中々理解の出来ない読者ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします(^_^;)
by nmzk (2010-09-16 10:52)
新書ですが、「インドネシア」水本達也著(中公新書)にもJIのことが記述されています。マレーシアの政治家で、今は野党の中心人物のアンワルうじの名前も出てくるのはびっくりした記憶があります。
by 冬嫌い (2010-09-16 18:02)
著者です。拙著を取り上げていただきありがとうございます。たったいま、たまたま見つけました。どうやら非常に近いところにいらっしゃる方と拝察いたしました。
ひとことだけ。本書の「一部」は博士論文を全面的に書き直したものですが、博士論文とはまったくの別物です。したがって、ルポライターを思わせるような書き方は一般書としての出版に向けてのものです。
by kenken31 (2011-03-16 15:36)