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南アジアの手工芸と開発(1) [インド]

AreaStudiesVol10.jpg『地域研究』、Vol.10 No.2 (2010年3月31日発行)
京都大学地域研究統合情報センター
南アジアにおいて手工芸を研究対象とする研究者と、手工芸を媒体とした開発に携わる実務者の協働を通して、近年の経済発展に伴い、変動の激しい地域社会の今を読む。

特集2「南アジアの手工芸と開発」
中谷純江「職人の支援と文化遺産の保護」
pp.143-164


日本に帰ってきてから、実は1日当たりのブログへのアクセス数(PV)が減っている。アクセス数が減った最大の理由は、現地の新聞・雑誌から拾ったインド最新事情が紹介できないからだろうと思っている。以前は多かったインド国内からのアクセスが、最近は逆に珍しいくらいである。そうなると想像はしていたので、驚かないし焦らない。ただ、何らかの形でインドと繋がっていたいという気持ちは強く、そのために何ができるのかも時々考える。

そこで思いついたのは、逆に日本にいないと読めないインド関連の学術論文を拾い読みするという新機軸だ。幸いなことに、僕の今の職場はそういう学術誌が所蔵されている図書館が近くにあるので、今後このような形で学習メモとしてブログを活用するのも考えていきたいと思う。

さて、今後何回かに分けてメモしていきたいのが学術雑誌『地域研究』最新号に収録されている特集記事である。経済自由化以降の南アジアの変動は、農村が地球規模のモノや人、情報の流れと直接繋がることによる「モビリティ」の増加によって生じている。こうした農村と外部世界との繋がりは、農村開発を契機として始まっているが、それは政府が主導するものであったり、国内外のNGOが主導するものであったりし、こうした開発事業を通じ、農村の人々は否応なく市場経済や国境を越えて共有される考え方や価値基準に巻き込まれていっている。本特集は、南アジアの農村で進められてきた手工芸を媒体とする開発が契機となって起きている変動について検証することを目的としている。

その所収論文の第1号である中谷論文は、「インドにおける手工芸開発の変遷」というサブタイトルが示す通り、インドの手工芸開発の歴史を、実際に開発に携わった人々に焦点を当てて描き出すことを目的としている。とはいえ、開発に携わってきた人々というのは比較的最近の人々であり、それよりも圧倒的に長いインドの手工芸の歴史の概観は、インドの歴史そのものともかかわるものでなかなか面白かった。

歴史上の大きなポイントは4世紀のグプタ朝時代で、この頃には地中海交易が衰退し、農業経済が支配的になって社会の封建化が進んだという。こうした農業経済を基盤とした村落社会には「ジャジマーニー制度」という社会システムが手工芸職人の生産を支えた。土地を支配する農業カーストと職人カーストの間で、サービスやモノの授受関係が世襲的に結ばれており、この農民世帯(パトロン)と職人との関係は親から子へと世襲されたので、専門職人たちに安定的な生計を保証し、技術を伝承する機能を果たしたという。

こうして農業社会としての収斂が早かった北インドと異なり、南インドでは、中世においても農業を基盤とする集団と職業商人の集団が拮抗していたという。南インドでは、11世紀から13世紀頃には職工カーストが手工芸の生産と交易の両方に携わる職人商人として、強大な権力を持っていた。

一方、北インドは16世紀のムガール帝国支配下において支配階級の庇護の下で染織や装飾品、建築の技術が成熟し、職人の活動は専門化が進んで盛況を極めた。インドの染織品は、古くからの西アジアやアフリカ市場だけではなく遠くヨーロッパにも輸出されるようになった。しかし、ムガール帝国は18世紀になると衰退の途を辿り、多くの職人はデリーから地方に移住し、地方において産業が成長した。

19世紀にはいると英国から大量の工業製品がインドに入ってくるようになり、これに対抗するために、手織業は高番手化・高級品化し、遠隔地市場向け生産に特化することで生き延びることを試みた。これに伴い手織職人に対して商人が支配する問屋制が拡大していった。比較的平等だったかつての職人商人ネットワークが、親方や商人という企業家職人と職工労働者へと分化していった。

農村においても商品経済が浸透し、安価な工業製品が市場で簡単に手に入るようになると、農民は壺や農具を職人から直接購入する必要がなくなり、かつ農業収穫物も市場で売って現金に交換すればよく、職人に分配する必要もなくなった。職人は専門技術によって生活することが難しくなり、多くは伝統的な仕事を辞めた。しかし、職人カーストは農村では土地を持たないことが多く、他に生計手段を持たないまま困窮化の途を辿って行ったという。

独立後のインドの村落産業の振興策は、こうして近代化によって生計手段を失い、農村に取り残された職人への支援策として始まった。第1次5カ年計画は、ガンディーの理想を背景とし、西洋の文化に対するインド独自の文化や価値観の構築という意味も込められていた。しかし、実際に小規模産業政策の主な対象となったのは機械化された小規模工場であり、必ずしも伝統的手工芸の復興には至っていなかった。

ここからが「開発に携わってきた人々」にスポットを当てた記述になってくる。

先ずは「手工芸品の生みの親」といわれるカマラデーヴィー・チャットパディヤ。彼女が独立直後から1960年代後半まで、政府の手工芸開発を率い、その間に1952年には手工芸開発の計画立案機関として全インド手工芸局が設立されてカマラデーヴィーは初代長官に就任した。彼女は遠隔地にも自ら赴いて直接生産者と接するとともに、手工芸の仕事に関わる人々――中核の幹部からデザイナー、買い付け担当者、売り子など、全ての人々が現場に足を運んで職人の技術や伝統的な美を学び、それを現代の市場に対応できる形に開発するという、デザイン開発とマーケティングの手法を築いた。これにより、近代化路線の開発政策からこぼれおちる人々の救済という、政府が手工芸開発に期待した以上の役割を果たしたと言われている。

2人目は、1969年から89年まで政府の手工芸開発をリードしたプープル・ジャヤカール。ビハール州マドゥバニ地方の民画(ミティラ・アート)の発見者として知られる彼女は当時のインディラ・ガンディー首相と親しく、職工センターを各地に設立して手織物産地の復興に努めた。全インド手工芸局を全インド手工芸手織局(All India Handicrats and Handlooms Board)に改組し、さらには1968年の手工芸手織輸出公社設立にも関わり、手工芸の海外展開を積極的に進めた。ニューヨークやパリに直売店を開設した他、英国、米国、フランス、日本などでインド祭を開催し、手工芸と手織の展覧会を企画していった。こうして、1980年代半ばには、インドの手工芸は建築や芸術と並ぶユニークな文化遺産であるとの認識が生まれてきた。こうして、手工芸振興の目的は職人の生活支援から、国による職人と芸術遺産の保全へとシフトしていった。

3人目は、ブリッジ・ブージャン・バシン。彼は、1970年代にグジャラート州カッチ地方の刺繍品の振興で実績を上げ、70年代末に中央政府に呼ばれ、ジャヤカールの指揮下で海外市場の開拓に力を入れていった。6年間の欧州駐在を終えて1990年に帰国したバシンは、中央家内産業公社(Central Cottage Industry Corporation)総裁と手工芸手織輸出公社総裁を兼務した。しかし、彼はこの要職を4年で辞任。その理由として考えられるのは、ジャヤカールが勧めた文化遺産としての手工芸品の振興が、伝統技術を持った個々の職人ではなく、彼らが作った「モノ」が注目される結果となり、カマラデーヴィの時代に進められた、手工芸開発に携わる人々が現場で職人と向き合い、新しいデザインを開発していくという手法自体が顧みられなくなったからではないかと中谷は見ている。開発すべきは「モノ」ではなく「人」という信念を貫くため、官職を退いたバシンは、活動の場をNGOに求め、海外マーケットよりむしろ国内マーケットの強化に力を注いだ。政府の施策は1990年代も手工芸品の輸出を指向していたが、彼は国内需要が開拓されない限りは手工芸品市場の伸びは長く続かず、むしろ国内向けの商品においてこそ職人達の創造性や技術を生かすことができると考えた。

現在、デリー市内ジャンパト通りに店舗を構える中央家内産業公社のエンポリウム(直営店)は1995年に現在のビルに開設されており、また今や『地球の歩き方』にも出てくる「ディリー・ハート(Dilli Haat)」は1994年に設置された。ディリー・ハートは、首都で観光客や中所得者層の成長著しい都市住民を客として、各地の手工芸職人達が、直接商品を販売するための場として設置されたもので、職人が直接商品を販売することを通じて、マーケティングの手法を学び、消費者の嗜好を知り、より良い生産に生かすことができるようにと意図された。

このように、インドの現在の手工芸開発における大きな課題は、職人達が手工芸品の単なる生産者ではなく、自ら販売も手掛ける職人へと成長するのをどのように支援するかにあると中谷は強調している。そして、職人の支援と文化遺産の保護という2つの課題のバランスは政府の施策ではなかなか保たれなかったのに対し、バシンが官職を辞してNGOに転身したことを以て、かつて政府に期待された社会開発に向けた役割を、近年はNGOが担うようになってきた表れであると中谷は指摘している。

―――以上が中谷論文の概略である。

何故この特集をこの学術論文紹介シリーズの最初に持ってきたかという背景について最後に述べておきたい。

先日、市の国際交流協会の事務局に帰国の挨拶にうかがった際のことだ。この国際交流協会は毎年9月下旬に井之頭公園で国際交流フェスティバルを2日間にわたって開催している。少し前に自宅に郵送されてきた会報に、世界各地域の物産販売や展示ブースの担当ボランティアを募集中とあったのを覚えていた僕は、事務局に勤めている知人に、「南アジアのブースならお手伝いしますよ」と取りあえず意向を伝えておいた。

ネパール、インドを通算すると5年7カ月も南アジアで住んだことがある自分としては、展示物や販売品についての背景の説明ぐらいはちゃんとできないとと思った次第である。また、実際に3年もインドに住みながら、ジャンパトのエンポリウムやディリー・ハートがいつ頃どのような背景で開設されたのかについて殆ど知らなかった。また、僕はグジャラート州のカッチ地方を訪れたことがないので、カッチの手工芸品が素晴らしいと絶賛していた職場の同僚(僕より先に帰国)の言葉がイマイチ理解できなかった。

南アジアの展示・販売ブースのお手伝いをするのであれば、少しぐらいは勉強してから当日に臨みたい。
そんな気持ちで今回は手工芸と開発というテーマについて何回か取り上げてみたいと思っている。

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Rigrima Japan

Sanchaiさん、お帰りなさい。
NFU関係者です。リグリマ・ジャパンもMISHOPフェスティバルで、ガロを始めとするバングラデシュの手工芸品を販売します。Sanchai さんが南アジア・ブースを手伝ってくだされば、鬼に金棒です。うちは南アジアの昔話の読み聞かせをしようと考えています。ご存じの昔話があれば教えてください。どうぞよろしくお願いします。
by Rigrima Japan (2010-07-12 18:35) 

Sanchai

★リグリマさん★
コメントありがとうございます。MISHOPワールドでお目にかかれることを楽しみにしています。私も、南アジア・ブースでトークイベントでも考えて欲しいと言われており、現在検討中です。南アジアの昔話というのであれば、うちに1冊か2冊あります。そのうちお貸ししたいと思います。
by Sanchai (2010-07-13 00:08) 

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