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『ノーマン・ボーローグ』 [読書日記]

“緑の革命”を起した不屈の農学者 ノーマン・ボーローグ

“緑の革命”を起した不屈の農学者 ノーマン・ボーローグ

  • 作者: レオン ヘッサー
  • 出版社/メーカー: 悠書館
  • 発売日: 2009/09
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
“現場”でのたゆまぬ品種改良努力の結果うみだされた“奇跡の小麦”(小麦さび病に強く、矮性かつ早生で、高収量の小麦)を武器に、まずはラテンアメリカで、次いでインド亜大陸で、さらにアフリカで中国で、次々と引き起こされた“緑の革命”の中心人物となり、飢餓に苦しむ数億人の人々を救い、世界平和に貢献したとして、1970年、ノーベル平和賞を受賞した農学者、ノーマン・ボーローグの生涯。
本書は1960年代に起きた「緑の革命」の最大の功労者であろう農学者でかつノーベル平和賞受賞者であるノーマン・ボーローグ博士の伝記である。恥ずかしながらボーローグ博士のお名前は全然存じ上げてなかったが、博士がノルウェー系移民の子孫で米アイオワ州ハワード郡の生まれ少年時代を過ごされたと知り、隣のフロイド郡にあるチャールズ・シティ在住の友人を二度も訪ねたことがある僕としては、そうだと知っていればクレスコにあるという博物館の見学にも行ったのにと後悔してしまった。

本書を読もうとした問題意識は、稲作での緑の革命が1960年代のインドにおいてどのように進んだのかに関する記述がないかどうかを探すことだったが、ボーローグ博士の功績は直接的には小麦における緑の革命の推進にあり、コメに関しては博士の新種開発の方法論を応用して別の研究機関(1960年設立の国際稲研究所(IRRI))が推進したものだというのがわかった。また、インドにおける緑の革命も、コメよりも小麦の方がインパクトが大きかったということも恥ずかしながら本書を読んで初めて知った。

 矮小型メキシコ小麦が1961年に初めて国内で配布されると、優秀な農家ではヘクタール当たり5トン、6トン、7トン、8トンと次々と収穫を伸ばし始めた。7年足らずで国内の平均生産量は2倍になった。ボーローグは最も質のいい2系統の小麦をSonora 64、Lerma Rojo 64と名付けた。これは初期に行った取り組みのなかから派生した矮小型メキシコ小麦で、のちにインドとパキスタンで起きた緑の革命の引き金になったものだ。(p.70)

 メキシコ小麦の導入とほぼ時を同じくして、フィリピンのロスバニョスにある国際稲研究所で生育された新たな“奇跡の稲”の生産が増え始めた。新種の小麦と同様に、この新種の稲は短桿型で、大量に肥料を与えても倒伏しにくく、肥料をよく吸収し、適応力にすぐれ、高収量だった。この奇跡の稲の開発には、ボーローグが小麦で使った技術が応用された。(p.75)
食糧危機が深刻さを増すなか、1962年にはパキスタンが、64年にはインドがメキシコ品種の評価に本腰を入れ始めた。また、両国はそれらの品種の収量能力を十分発揮できるよう改良した栽培管理方法の導入にも力を入れるようになった。パキスタンとインドはそれぞれ1965年と66年に大々的な穀物生産キャンペーンを開始したが、このキャンペーンが実現したのも、国際春小麦栽培試験地からの情報があってこそだった。
 (pp.73-84)

 1966年、IRRIは、研究プログラムが始まってわずか4年でセンターの名前にちなんで名付けた最初のコメ品種、IR8を発表した。背丈が低く、茎がしっかりと太いため、倒伏しにくいIR8は、たちまちのうちにインドの亜大陸や他の地域で栽培されるようになり、劇的な成果を上げた。
 アジアのコメ栽培地域全域に急速に広まったこのIR8は、“奇跡”の小麦に続く“奇跡”のコメとなり、(ロックフェラー)財団の後押しで進められ、緑に革命の発端となった研究プロジェクトの後半部分となった。こうしてIRRIの研究プログラムはハラー(ジョージ・ハラー・ロックフェラー財団理事長)とヒル(フォレスト・ヒル・フォード財団副理事長)の期待を上回る成果を上げたのだった。(p.136、括弧書きは管理人補足)

 このような総合的なアプローチの効果は、緑の革命でもすでに現れていた。その火付け役となったのが例の新品種とその生産性を上げる新技術だ。フィリピン、セイロン、マレーシア、西パキスタンではIRRIで開発されたIR8が、インドとパキスタンでは、CIMMYT(国際トウモロコシ小麦改良センター)がつくった矮性メキシコ小麦が火付け役となり、その日はたちまちのうちにトルコ、アフガニスタン、イラン、モロッコ、チュニジア、アルゼンチン、チリ、ブラジルへと広がり、10年後には中国にまで広がった。
 ハーディン(ローウェル・ハーディン・フォード財団国際部門上級農学者)は次のように述べている。「フォード財団の人間である私が見ても、IRRIとCIMMYTがあれほどの成功を収めたのは研究と研修という手法で問題解決を図ったロックフェラー財団の努力の賜物にほかならない
 もちろん、それを実現させる手法をつくり出したのはボーローグだ。
 (pp.142-143、括弧書きは管理人補足)

そういう意味ではコメに関する記述が期待したほど多くはなかったので少し残念だった。一方で、こと小麦に関しては博士が直接の当事者でもあることから記述もなかなか詳細で、第6章はまるまる全てが1960年代のインドにおける小麦増産の経緯に充てられており、これはこれで臨場感もあって面白かった。

こうした功績があってこその1970年ノーベル平和賞受賞だったわけだが、なぜ農学ではなく平和賞だったのかというところでも本書は詳しい。それによると、部門のラインナップはノーベルの遺言に基づいて決められているようで、新たな表彰部門を設けることはかなわないのだという。そこで、ボーローグ博士はノーベル賞に変わる『世界食糧賞』の創設に奔走された。そして、第1回の受賞者は、インドの「緑の革命の父」、スワミナサン博士に贈られた。

 世界食糧賞は、世界の食糧の量や質、供給性を向上させ、食糧を入手しやすくすることに大きな貢献を果たした個人の功績を称える最高の賞として設立された。
   1987年の第1回世界食糧賞は、世界の食糧の増産と供給性の拡大に大きく貢献したインド人のM. S. スワミナサン博士に贈られた。先にも述べたように、彼は南アジアの緑の革命の初期、ボーローグとともにこの革命を推進した中心メンバーのひとりだ。さまざまな要職を歴任し、多くの功績をあげてきた彼は、インド農業研究委員会のディレクターも努め、1982年から88年まではフィリピンの国際稲研究所(IRRI)の所長を務めた。(p.163)

実は、本書を読むにあたっての関心の1つはまさに、スワミナサン博士は何ゆえ「インドの緑の革命の父」と呼ばれているのか、その理由を知りたいからでもあった。本書全体を通せば、矮小型メキシコ小麦の開発に成功したボーローグ博士の功績については非常によくわかる。しかし、残念なことにスワミナサン博士が何故偉大なのかについての納得いく記述は本書には見られなかった。1960年代にボーローグ博士がインドの食糧増産と関わる際に現場同行したことぐらいしか書かれていない。

同様なことはこの矮小型メキシコ小麦の研究開発の元になったという日本産秋蒔き小麦「農林10号」の種子導入に関する記述もなんだかサラッとしている印象である。

その一方で、ボーローグ博士がアフリカ食糧増産という大きな課題に関わるようになった経緯、日本財団の故・笹川良一会長の要請に応じて「笹川グローバル2000」の技術分野のリーダーを務めるようになった経緯については非常に詳細に書かれている。ハンセン病撲滅運動における笹川氏の先見性についてはこれまでもブログで言及したことがあるが、「緑の革命をアフリカで起こしたい」という理想を1980年代前半に既に持ち、ボーローグ博士やカーター元米国大統領に接触していたその行動力にも感銘を受けた。

「笹川グローバル2000」については下記URLが詳しい。
 http://www.saa-tokyo.org/japanese/

以下は1985年にジュネーブで日本財団が主催したワークショップにおけるボーローグ博士の発言の引用である。アフリカが直面する開発課題が的確に指摘されているような気がする。

 ワークショップでの議論から、ボーローグは以下のように結論づけた。「アフリカの食糧事情が危機的な状況に陥った原因として特に大きいのは、長年にわたって政治指導者たちが農業を軽視してきたことだ」
 彼は、以下のような課題をあげた。「アフリカのほとんどの国で、国民の70~85%が農業を営んでいるという事実があるにもかかわらず、農業や農村開発の優先順位を下げたり、非現実的で理想主義的な開発目標を追い求めたりしている政府があまりにも多い。道路や物資輸送、穀物市場システムの整備、農業の研究、基礎教育、応用教育への投資が、まったく不十分だった。さらに、支持政党を変えやすい都市部の住民を満足させるために安い食料を提供する政策によって、農民の生産に対する考え方は大きくゆがめられた」
 サハラ砂漠以南のアフリカの多くの国が抱える制約は厳しく、そして数が多い。だが、そのすべての根本にあるのは、道路や交通機関、電力の不足による農村部の孤立だ。「インフラ不足がアフリカを殺している」とボーローグは断言する。(後略)
 ボーローグはこう話す。「アフリカには、もっと広範囲にわたる交通網が必要だ。農村部を通る砂利道もたくさんいるが、それとともに港へのアクセスをよくする舗装した幹線道路も必要になってくる。農村部の道路の舗装は、そのあとに行なうことができる。基本的な交通網を改良すれば、農業生産は大きく加速し、民族間の対立は和らぎ、これまで教師や医者が行きたがらなかった農村部に学校や診療所をつくる助けになるだろう」
 一方で、失望感もあらわにする。「軍事行動や兵器に9000億ドルもの大金をつぎ込んで、道路や学校にはスズメの涙ほどの予算しか使えない状況を正当化できる世界というのは、いったいどういうものなのか?」(pp.182-184)

アフリカ開発を考える上で運輸交通インフラがボトルネックだという指摘は度々耳にする。しかも、博士はこのインフラ開発の課題を、南アジアとの比較で言及もされている。

 「南アジアでは、緑の革命のための輸送インフラはすでに整っていた」とボーローグは説明する。「インダス川が生んだ肥沃な平野があるパンジャブ地方には、イギリスが鉄道をつくっていた。優秀な水力工学者を送り込み、ダムと水路を建設して、世界最大の灌漑地帯をつくり上げたんだ。だが、アフリカを植民地化した国々のねらいは、宝石と鉱物だった。だから、鉄道は鉱山に向けて敷かれ、農業にはほとんど目が向けられなかった。その結果、道路、灌漑、電力といったインフラの点で見れば、人口の多い地域の中で、アフリカは最も発展の遅れた地域となってしまった」
 世界銀行がまとめたある報告によれば、1960年のインド並みの輸送インフラをアフリカに整備しようとすると、2030年までかかると推測している。このような状況では、特に国内の通商や国際貿易の発展という点で、アフリカの農民はかなり不利な立場に立たされることになる。(p.184)

「笹川グローバル2000」のインパクトについても言及がある。勿論、これらは笹川アフリカ協会のHPに行けば確認可能なことばかりかもしれないが、欧米の活字メディアでこのような形で紹介されるというところは特筆に価する。

 各国の農業当局、特に農業普及機関と連携をとりながら、笹川グローバル2000は、数百万人の農民とともに新しい食糧生産技術の試験を行なった。農民が管理するこうした試験場の収量は、国内の水準よりも2、3倍高くなり、推奨する技術がすぐれていることが実証された。
 このプログラムに参加した農民は、近代農法の簡易パッケージを使って試験場で作物を栽培するための技術的な支援が提供され、必要な物資は後払いで購入できる。こうして、その時代で最も高収量の品種を手に入れ、適度に肥料を使って、近代的な農法を実践できるようになった。
 「肥料代が高いのが特に問題だった」とボーローグは話す。アフリカでは、ほかの地域の発展途上国よりも、肥料代が2、3倍高くなり、小農には、推奨される物資を買うための資金力がないことが多い。収穫した作物の市場も不安定だが、全般的には、新品種とそれに関連する生産技術を導入するメリットはある。(pp.188-189)

最後に、ボーローグ博士が遺伝子組換え種子の導入に積極的賛成の立場を取っておられるところは、予想はしていたけれど少し残念な気がした。遺伝子組換え種子からできた作物が人体にどのような影響を及ぼすのかは長期的な話だし人体実験もできないので実証が難しい。従ってどうしても賛否両論が存在してしまうのであろう。

全体としては非常に面白い本である。あまり聞いたことのない出版社から出ていてどれくらい売れるのかもよくわからないが、こういう本を読んだら、これから農業を目指そうと考える若者も多く出てくるのではないかという期待感も湧いてくる。
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