地下水砒素汚染―問題解決に必要なもの [インド]
2月11日(木)、ウッタルプラデシュ(UP)州の州都ラクノウで地下水砒素汚染問題に関するシンポジウムが開催された。ラクノウから北に100kmほど離れたバライチ県というところで、宮崎大学が現地NGOと共同で行なっている総合的地下水砒素汚染対策のプロジェクトが間もなく2年目を終了することから、この2年間の成果を、UP州の政府関係者や砒素問題に多少なりとも関心を持つ研究者、NGO、マスコミ等と情報共有しようということで行なわれたものだ。
でも、他の州の関係者、中央政府関係者まではあまり参加してなかったし、UP州で初めて地下水砒素汚染が報告された2003年以来、UP州水道公社(UPJN)と共同で実態調査を行なったユニセフや水質基準を作っているWHOといった国際機関は出席してなかった。先週お目にかかった「ベンガルの熱い男」チャクラボルティ教授は、その攻撃的な姿勢を懸念する主催者側の深謀遠慮があったからか、やはり来られてなかった。
シンポジウムの冒頭で僕も何か喋れということだったので、おおよそ次のようなことを申し上げた。僕が現時点でこの問題に関して思っていることをある程度整理して申し上げたつもりだ。
1)砒素問題は南アジア地域の共通課題という視点を持つこと
地下水砒素汚染問題では、ガンジス・メグナ・ブラマプトラ河流域全体で、1億人以上の住民が健康リスクに晒されているが、こうした流域全体を纏めてとらえ、地域の共通課題であるという認識が政策立案者、マスコミ、学界、市民社会といった全てのレベルで十分ではない。勿論、問題は広範な地域にまたがるが、地域の状況は地域によって異なるため、地域特有の社会経済環境を踏まえて水利用計画策定と取組み実施が必要になる。しかし、地域住民の見方は狭く、そこに他地域の経験を踏まえた新たなアイデアが出てくる余地は小さい。流域全体で各個別地域間での知見共有の場がもっと作られる必要がある。これができるのは外部者の立場でこの問題を見てきたアジア砒素ネットワーク(AAN)や宮崎大学のような外国の団体。これが、州を越えて、国境を越えて拡がって行くことがもっと必要。
2)草の根NGOの活動共通の課題は住民への教育と意識変革
宮崎大学に限らず、インド各地で活動している日本のNGO・大学等の草の根支援活動が共通して直面している問題は、住民の意識を変えることである。ましてや砒素の場合、汚染された水をコップ1杯今飲んだからといって明日死ぬわけではない。メタボリックシンドロームと同じで、ゆっくりと死に至るリスクに対して、住民を意識付けすることは極めて難しい。「これは自分自身の問題」だと気付かせるための工夫が必要だが、それにしても時間がかかることである。
砒素除去装置の設置にしても同様。住民は貰うことに慣れ過ぎており、壊れたら政府か援助機関がまた作ってくれると思っている。住民に、公共構造物の運営と維持管理のオーナーシップを持ってもらうことは大変難しい。(これはUP州のようなカースト間の軋轢が先鋭化しているところではより大きく、同じ村でも家族しか信じず、公共活動への住民参加が非常に難しいということを暗に言いたかった。)それを短期間でできるのかという問題がある。
3)課題に取り組む政府側実施体制にも問題がある
砒素はセクター横断的・課題横断的課題(クロスカッティング・イシュー)である。水利用だけでも、地下水利用か地表水利用か、雨水利用かといった選択肢があり、飲用と農業灌漑用をそれぞれどうするかという課題もある。水質問題についても、基準の妥当性見当から、水質簡易検査キットの開発、製造認可といった論点があり得る。健康医療面でも、栄養摂取と砒素中毒リスクの関係性、早期発見体制の整備、レファレルシステムの構築といった課題があり、農業でも、汚染地下水を飲んだら家畜はどうなるのか、穀物や野菜にはどのような影響が出るのかを見る必要がある。そして何よりも大きな課題は住民動員である。
従って、1つの政府機関がこれら全ての課題を網羅して対策立案・実施を担うことは不可能である。UP州ではUPJNが中心となって砒素問題のタスクフォースがあると聞くが、こうした取組みは他州でも進められる必要があるし、何よりも中央政府においては砒素問題に取り組むための制度枠組みがない。先週某教授がデリーの政府役人対象に砒素問題についてレクチャーをしたところ、フロアからの反応は、「自分が今飲んでいる水は大丈夫なのか、それをどのように検査したらいいのか」という質問に集中し、流域人口の70~80%の住民の健康リスクの軽減に対して思いが及ばない様子だった。
実施体制の問題は援助機関側にもある。国連機関は課題別で編成されており、ユニセフはユニセフ、WHOはWHOの視点からしかこの問題を捉えられない。また、時間をかけないと成果が確認できないような課題に対し、現在の国際援助の潮流は中期的な成果にかなり注目が集まり、時間をかけて成果を上げていくというアプローチが取りづらい。中には10年やったからおしまいという乱暴なやり方もある。
4)常に住民の視点で
砒素問題について、対応を誤ると最も影響を受けるのは住民である。この問題に取り組むに当たっての目標は、「いかにして住民の健康リスクを軽減するか」に尽きる。住民の視点に立った議論を期待したい。
…などとエラそうに申し上げたところ、その後の議論は意に反して砒素除去装置の技術論の方に大きく振れた。それは参加者の顔ぶれを考えれば仕方がないことだったかもしれないが、飲むのに安全と認定される水質基準としてWHOのものを用いるのはおかしく、むしろインドの基準を用いるべきだとか、除去した後のスラッジ(砒素を吸着させた砂利や鉄)の処理がインドの産業廃棄物処理基準に基づいてちゃんと行なわれているのかとか、そんな枝葉末節の話に行くと、ひょっとしたらこの人たちは農村の生活実態を知らないのではないかと勘繰りたくもなった。
また、僕が冒頭でこんな発言をしたところ、その後のティーブレイクで中央政府から来たという参加者につかまり、「中央政府が何もやってないというお前の認識は間違っている」と強硬に食い下がられた。僕は「中央政府が何もやっていない」と言ったのではなく、「砒素問題を包括的に検討する制度枠組みがない」と言ったつもりなのだが(笑)。彼らなりに「ちゃんと政府はやっている」というロジックの根拠は、単に「安全な水供給」の観点からちゃんと取り組んでいるというところにあり、確かにそれは正しいが、砒素問題の包括性については水供給の問題だけでは不十分だと僕は言いたい。「だったら証拠を見せてくれ」とだけ言って、次のセッションに入った。
水供給に関わっている人の多くは、「技術的に適切な構造物を作れば問題は解決される」という強い信念があるが、それには金はかかるし、構造物はどこに設置するのか、適切な使い方を誰が利用者にどのように教えるのか、そして利用者が適切な維持管理を行なうためのルールをどう作り、そのルールをどのように運用していくのかといった幾つかの課題がある。そのためにはその地域のこと、社会経済環境や村の権力構造、利用できる水の水源とその所有関係といったものをちゃんと理解し、住民に密着した働きかけが必要となる。それがどれだけ難しいことなのか、そこで宮崎大学と現地パートナーNGOがどれだけ苦労してきたのか、それが実はこの大き過ぎる課題に取り組む際に我々が先行者から最も学んでおかねばならないポイントだ。
ややもすると水供給のエンジニアリングの問題と早期発見・早期治療という対症療法的医療対策の問題に矮小化されてしまう州政府レベルの議論に比べれば、現地に張り付いて住民と接して地道な活動をしている草の根NGOの人々には頭が下がる思いがする。そして、チャクラボルティ教授が以前仰っていたように、彼らこそがこの問題の本質を身を以て理解されているように思う。願わくば、こうした砒素汚染を念頭に置いたNGOの活動が、他の草の根活動を展開しているNGOの間でも認識共有され、同様にコミュニティ開発を志す各団体の活動の中に、「砒素」の意識付けがしっかり行なわれれば、より地に足の付いた活動が面的展開を見せていくに違いない。
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