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『信州に上医あり』 [南木佳士]

信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書)

信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書)

  • 作者: 南木 佳士
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1994/01
  • メディア: -
内容(「BOOK」データベースより)
すぐれた医者は病人のみならず地域社会や国の病をも治す。寒村の小さな診療所にはじまり、いまでは全国に知られる佐久総合病院。そこに敗戦直前に赴任し、「農民とともに」を合言葉に農村医療を実践してきた若月俊一。医師として、作家として人間の生と死を見つめてきた著者が、波瀾に満ちた信念の医師の半生をたどり、真の医療のあり方を問う。

24、25日にかけて、実質1日のみという強行日程だがウッタルプラデシュ州クシナガルに行くことになった。日本から来られるお客さんのアテンドだが、僕自身は、これを機会にインドの僻地医療・地域医療について少しだけ考えてみたいと思っている。そのためには、日本の僻地医療・地域医療についても少しぐらい勉強しておかねばと思い、6月の一時帰国中に少し集めてあった若月俊一医師と佐久総合病院に関する文献にいよいよ挑戦する気になった。

手始めの1冊は芥川賞作家・南木佳士による評伝。著者の南木氏は元々現役の佐久病院勤務医である。現役の医師が小説を書くというのはなんだか結構多いような気がするが、幾つも才能を持っている人は凄いと思う。(若月医師もまた学生時代は文学青年だったらしいし、本書でも彼が書いた詩が幾つも紹介されている。)実際に若月院長と接してきた人ならではのエピソードもちりばめられており、恰好の若月俊一入門書となっている。


今さら「若月俊一」の略歴を説明する必要はないだろうが、念のために簡単に述べておく。僕が初めて彼の名を耳にしたのは昨年のこと。歴代のラモン・マグサイサイ賞受賞者の名前を調べていて、1976年の受賞者に彼の名前を見つけたのが最初だった。「アジアのノーベル賞」とも言われるマグサイサイ賞を受賞した日本人は23人いるが、「コミュニティ・リーダーシップ」のカテゴリーで受賞したのは市川房江と若月しかいない(逆にこのカテゴリーの受賞者はインド人の場合かなり多い)。次に同賞受賞に至った彼の功績を詳しく知ったのは今年2月のケララでの国際会議出席に向けて日本の医療制度改革について文献を読み込んでいた時のことであった。

ごく簡略化して述べるとすると、若月は太平洋戦争終結直前の昭和20年3月に佐久病院に外科医として赴任し、そこで都市住民を中心に概念規定されている医学では理解困難な症例に直面し、農村生活と疾病の関係を結びつけ、新たに「農村医学」という概念枠組みを構築した。難しい表現だが例えばこんなことだ。
 外科医である若月が佐久病院に来て不思議に思ったのは、農民に胆石の患者が多いという意外な事実だった。東大時代、胆石に関する研究もしたことのある若月の知識では、胆石の原因は主としてコレステリンで、これは動物性脂肪を多く摂る人に起こりやすい病気であった。ところが、この地方の農民は動物性脂肪など摂りたくても摂れない食生活をしていた。そんな農民に胆石が多いのはいったいどういうわけだろう。
 答は開腹してみてはじめて分かった。胆嚢や胆道の中から出てきたのは、ほとんど石ではなくて回虫だったのである。胆道の中に7匹つまっていた患者もいた。これを取り出すと胆石の症状は忘れたように治ってしまうのだった。(p.96)

つまり、通常の医学の常識では計り知れない症例が農村には多く、しかもそれらが農村生活の実態と密接に繋がっており、疾病の克服のためには単に治療のみならず、生活の改善も必須ということになる。また、治療といっても高価な医薬品を購入する余力など当時の農民にはなかったから、在地の原材料を用いた新たな処方の検討も求められた。例えば前述の回虫であるが、終戦直後のこの時期はサントニンという薬を用いた虫下しがかけられなかった。そこで若月は民間療法からヒントを得て麦わらの煎じ汁を虫下しに用いるのが有効であることを発見する。

こうした初期の農村医学の概念形成における若月の貢献は計り知れないものがある。今では農村の疾病も都市と全く変わらないものになってきているので日本において農村医学の意義というのは今は薄れてきているかもしれない。しかし、終戦直後の佐久地方の農村の状況は、今の途上国の農村の農民生活と酷似していたようで、むしろ若月と佐久病院の経験は今の途上国の農村医療の現場でこそ学ぶ意義があるのではないかと思える。また、今の途上国の農村での医療の実態が当該国に特殊的な事情であるかというとそうではなく、日本の農村も昔はそうだったという当たり前の事実を思い起こさせてくれる。
 今日の農村医療の中で、「無医村的」環境ということが大きな問題になっています。要するに農村には医者がいないのです。これは昔からのことで、封建社会では医者というものは農村にいなかったのです。百姓は病気になれば加持祈祷、おまじない、民間療法、漢方、はり・きゅうにたよるしかありませんでした。医学は、少なくとも過去の階級社会では、支配階級の専有物だったといえましょう。基本的に医者というものは「御典医」であり、「お抱え医者」なのです。「生かさぬように殺さぬように」されていた百姓に、医者というものがなかったのは当然ともいえましょう。
 さて、高度経済成長の今日になりまして、農家の生活も、「母ちゃん農業」や「出稼ぎ」で苦しいなかにも、いちおう所得は年間450万円になる、マイカーが入る、カラーテレビでさえも入るという段階になったのに、事態はむしろますます「無医村」的になってきました。医者の分布は、都市、大産業へ、大学へとますます片寄っていくのです。何といっても対象はまだまだ貧しい農民ですから、農村では、企業としての「医業」は儲からないわけですし、それにこういう時代になりますと、医者とくに若い医者はますます技術主義、専門主義、「臓器医学」主義になり、そこにはもはや、人間を人間として把握するヒューマニズムはありません。(pp.168-169)

この一節を読みながら、僕はクシナガルのアーナンダ病院で孤軍奮闘するグプタ医師のことを思った。大都市に行けばアポロ病院やマックス病院といった民間病院で勤務して高い給料を貰える機会だって多い今のインドで、グプタ医師が政府系病院よりも安い給料でもクシナガルに残り、貧困農民の治療と予防のための生活改善に奮闘されているその姿は、本書に描かれている佐久病院赴任直後の若き若月医師の姿とだぶる。しかし、若月医師の場合は他のコメディカルのスタッフも連れて農村巡回に出る余裕がまだあったが、グプタ医師の場合はアーナンダ病院には他に勤務医がおらず、外来問診の傍らで自ら往診に回る余裕などない。それだけ制約条件がきついという状況にあるだけに、グプタ医師を支えるための人とモノとカネの拡充が本当は必要なのだと僕は常々思っている。

そうしてグプタ医師に思いをはせながら、著者の南木氏がアーナンダ病院をお訪ねになったらどのように感じられるだろうかとふと思った。若月病院長は2006年に96歳でお亡くなりになっているが、こうした評伝を書かれた著者であれば、その意を酌みつつアーナンダ病院の取組みを僕のブログなんかよりもずっと有効に多くの人々に紹介して下さることだろう。
若月のほんとうの「偉さ」を実感するためには、昭和20年代の日本の農村へのタイムスリップが必要なのであり、そのためには中国や東南アジアの農村まで出かけなければならないのだと知った。戦後生まれの医師たちが主流を占める佐久病院では、若月の話はすでに昔話の領域に入ってしまっているため、その本質が理解されにくくなってきている。すべての医師が東南アジアの農村に行くことができない以上、若月の話を理解するために本書が少しでも役に立てばとの思いから、書き始めたのである。(pp.206-207)

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