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『優しさごっこ』 [読書日記]

YasashisaGokko001.jpg今江祥智著、長新太絵
優しさごっこ
1977年1月、理論社
内容(「BOOK」データベースより)
その夏、とうさんとかあさんは別れ、かあさんは家を出て行った。そしてあかりはとうさんと2人で暮すことになった。料理、洗濯、掃除等、慣れない家事と必死で取り組む父と娘。父は娘に気づかい、娘は父に優しい、どこか奇妙な生活が始まった…。離婚から生まれた父と娘の新しい関係を、あたたかい眼差しで見つめ、父娘が共に成長して行く姿を描いて静かな感動を呼ぶ、児童文学の名作。

以前、どなたかがブログで本書について紹介されている記事を読み、読んでみたいなと思っていた1冊。但し、初版出版が1977年で新潮社から文庫化されたのも1987年と古く、絶版になっていて中古本の直接入手ができない海外生活では読むことができなかった。今回、近所のコミセン図書室で本を物色していたら、たまたま児童書のコーナーに収められていた本書を見つけ、「衝動借り」した。

貸出記録を見ると、次のようになっている。▽1988年9月、▽1990年1月、▽1991年1月、▽1993年8月、▽1994年11月、▽1997年2月―――即ち、自分を含めると過去7回しか借出が行なわれていない。コミセンの児童書は総じてこうした死蔵書が多いが、死蔵だからといって簡単に撤去して欲しくない1冊だと思う。

YasashisaGokko.jpgではなぜ借りられないのだろうか。実は本書を読んでいて疑問に思ったことが1つある。果たして本書は児童文学のジャンルに入れていい本なのかどうかということだ。主人公は10年連れ添った妻と離婚したばかりの絵本作家「とうさん」である。娘の小学3年生「あかり」とか他の登場人物に度々視線が代わったりすることはあるが、基本的には「とうさん」の視線で描かれている。従って、僕らでも知らない画家や作家、音楽家の名前や作品名が登場する。それらは子供に読ませるにはかなり難しいが、大人に読ませるにはルビがやたらと多い。

本書を発表する際、著者は一体誰を読者として想定していたのだろうか。僕は本書は児童文学として分類するのは適切ではないような気がする。どうせなら男性作家の文芸書のコーナーにでも置いたら、もっと貸出回転率が良くなるのではないだろうか。児童書のコーナーに置いておいても、300頁以上ある大作を読む児童自体がさほどいないのではないかと思えるし、では自分の子供達に薦めるかと聞かれると、多分薦めないと思う。もっと子供にとって魅力的な本がいっぱい出ているから。

本書は、僕達のような「あかり」に近い世代の子を持つ親が、「とうさん」の視線に立って読むべきだと思う。おそらく著者はそういう意図で本書を書いたものと思うが、「あかり」と同世代の僕達が成長して「とうさん」の立場に立った今になっても、その内容はあまり色褪せたとは感じられない。むしろ離婚がもっと頻繁に起きている現代にこそ、もう少し光が当たってもいい作品ではないかと思える。

また、本書が発表された1970年代後半の日本社会を考えた場合、本書で描かれている父と娘の会話にはかなりの先進性が感じられる。例えば、次のような件―――。
 -ま、出世せんかて、ええヨメさんになり、やさしい奥さんになれ、しゃっきりしたお母ちゃんになった方がええがな。
 -それが女の出世やろか?
 あかりの一言が、ふざけあっていたふたりの会話の中で、白く光る匕首(あいくち)になって、とうさんに突き刺さった。
 -わたし、出世はせんでもええけど、自分のしたいことをちゃんと見つけたいわ。
 あかりはまじめな顔で言った。
 -そらそうや。そうしてほしいわ。
 とうさんもまじめに答え、しみじみと女の子はかわったなあ……と思っていた。(p.110)
女の子はいいお母さんになるというのが普通だった当時の大人の間にあって、子供達の中にはこうした意見が見え始めていたというのがわかる。

 -そやけど、わたしは、おかあさんにとっては、かけがえのない娘とはちごうたンやろか。
 -そんなことあらへン。
 とうさんは、いそいで、しかし、きっぱりと言った。
 -どっちにとっても、かけがえのない娘やった。そやけど、どっちかが引取るとなったら、選ばなしゃない。かあさんは、あかりがとうさんの方になついてると、ずっと思い続けてきたし、とうさんが引取った方が安心できると判断したからや。
 -ふうん…。(中略)
 あかりはもう一度鼻をならした。そして、小さな声でつぶやいた。
 -選ばなしゃない、いうたかて、うちには選ばれへんかったんやなあ。
 それがつぶやきであって、抗議の気配がなかったことが、よけい鋭くとうさんを突き刺した。親の、大人の身勝手さを手厳しく突き刺す一言であった。(pp.126-127)
本書では、両親がなんで離婚することになってしまったのかという理由の部分はあまり言及されていない。特に「かあさん」のせりふは殆どないし、再婚するらしいという話も風の便りでしか触れられていない。そこから多くを想像することはできないが、残された子供がどうすべきか、子供に選択権がなかった、そんなこと思いも及ばなかった当時の状況がなんとなく垣間見える気がする。

本書は、タイトルが示唆する通り、残された父と娘の互いを思い遣りながら日常生活を過ごす苦労が描かれている作品である。当時の地域社会がまだそうであった通り、2人を取り巻く登場人物の殆どがいい人ばかりで、苦労する2人にあれこれと世話を焼いてくれる。そういうのに助けられて育てた当時はまだ良かったと思う。今そういうのがどれだけ機能するのかを考えると、かなり難しそうだ。最近、重松清が『ステップ』という小説を発表している。同じく小学生の娘と父の2人暮らしを描いた作品(但し、奥さんは急逝したという設定)のようだが、この2作品を比べてみると、昔と今の父娘の2人暮らしがどのように違うかを窺い知ることができるかもしれない。


ステップ

ステップ

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2009/03
  • メディア: 単行本


最後に、本書にあった絵本のコンセプトに面白いのがあったので引用して紹介しておきたい。とてもいいお話である。
 時代物で、若さまが主人公だった。いくさぐるいの殿さまが、国をあけて他国へ他国へいくさにでかけてるすのあいだ、ひまをもてあました奥がたさまが料理にこる話。つられて、若さまも食べることに夢中になり――この2人のくいしんぼが、ついには自分で台所に立ち、料理をすることにこりはじめ、材料えらびにこりはじめ、とうとう材料自体をつくる話。そうなっては、奥がたさまの若さまの――いや、御家老の侍の……などとはいってはおれず、皆々うちそろって材料づくり――つまり、お百姓仕事に、精をださずにいられなくなる話だった。
 おしまいの場面は、城も壕もとっぱらってつくった広い田畑一面に、国中の人間がいっせいにすきくわふりあげふりおろして働いているものだった。そうなるともう、みなすっかり日焼けして、だれが侍だか、だれがもとからのお百姓だったか――というわけで、いくさをすることなど考えるゆとりもなくなっていた…――という結末。(p.271)
――そうなったらいいですね。
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