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ケララ沿岸漁民の社会保障 [インド]

John Kurien and Antonyo Paul
"Social Security Nets for Marine Fisheries"
Centre for Development Studies Working Paper No. 318
October 2001, Centre for Development Studies, Thiruvananthapuram

ビハールへの旅に持参したのは新書本だけではない。デリーでの日常生活の中で論文を読む機会を作るのは意外と難しい。だから、せめて旅のお供には日本語の本だけではなく、英語の文献も含めてインドに関する自分の知見を少しでも前に進めたいと思ったりするのである。主にパトナからデリーへの帰りの飛行機の中で読んだ論文だったが、以前にも書いたようにこの日は1時間少々の睡眠時間で起きて空港に向かったので、時々猛烈な睡魔に襲われてあまり効率的な読み込みにはならなかったのが悔やまれる。

そこで本稿。以前読んだイルダヤラジャン教授の著書の参考文献リストに載っていたのに気付き、一度読んでみたいと思ったものである。ケララ州トリバンドラムにある開発研究センター(Centre for Development Studies、CDS)はケララの経済社会開発について豊富な研究の蓄積がある研究機関であるが、そこから、ケララ沿岸漁民のソーシャル・セーフティ・ネットについて紹介されたのがこの論文である。

日本と違い、インドには全国一律でカバーされている社会保障制度というものがない。公務員、会社員、軍人等をカバーする年金制度はあるが、これらを足し合わせても年金加入率は人口の10%程度しかカバーしていないのが現状だ。老齢年金制度はあることあり、一応税ベースの賦課方式を取っていると言えないことはないが、支給対象は60歳以上の貧困ライン以下の高齢者という縛りがあり、農民や自営業者が全て恩恵を受けているわけではない。インドはこれだけ広い国だから、全国一律にこだわる必要は確かにない。地域の特性に応じた独自の社会保障制度があってもいい。

KeralaMap.jpgではそうした先駆的な取組みはどこにあるのかというと、イルダヤラジャン教授の著書ではケララの沿岸漁民を対象とした社会保障制度があると紹介されている。そこで本日はこの、ケララ州漁業開発組合連盟「マチャフェド(Matsyafed)」ケララ漁民福祉基金「マチャボード(Matsyaboard」の取組みを紹介した論文について紹介してみる。

世界どこに行っても漁民の置かれている状況には次のような特徴がある。小規模漁業を中心とするコミュニティでは、生計を立てることはリスクが伴うわりには実入りが小さい。個人の所得はたいていの場合グループで行なう漁の売上げのシェアでしかない。その取り分も、漁でどれだけの労働を提供したか、漁に必要な資本投資にどれだけの資金を提供できたのかにかかっている。しかも、漁獲高は変動する。当然獲った魚がいくらで売れるのかも予測困難であり、毎日の収入は大きく変動することになる。

ケララ州の沿岸漁業は、他の伝統部門と比べて市場経済への統合度合も高く、近代的技術の導入も進み、輸出指向度が高い。このため、実は売上高も生産性も大きく引き上げられて所得水準と生活の質的改善に繋がったと見られている。しかし、実際のところは生産性は対して上がっていない。労働者の市場参入がそれ以上に進んでいるからである。漁民1人当たりのセクター総生産は州民1人当たりの州内総生産に比べてあまり伸びておらず、1970年から1985年の間にこの格差はどんどん拡がってしまった。

漁民の生活の質は低く、漁に出れば人命も機材も喪失するリスクにさらされるという漁業の特殊性は、ケララ州の一般論としては片付けられない大きな課題を提示する。沿岸部のごく狭い地域に住む漁民コミュニティの人口密度は高く、かや葺き屋根の粗悪な住居を好む傾向があり、トイレと飲料用水源が非常に近いために健康上のリスクにも曝されている。漁民の識字率はケララの就労年齢人口の平均識字率よりもかなり低い。また、漁民コミュニティの中にも格差があり、クリスチャンとムスリムが主流の南部と北部はヒンドゥー教徒中心の中部に比べて恵まれていないという。

そうした状況の中で、沿岸漁民を対象とした特別なセーフティネットの整備が大きな課題となった。「マチャフェド」にしても「マチャボード」にしても州政府主導で設立されたものであるが、その設立は漁民自らが州政府に対して様々な要求を行なってきたことが反映されてきた結果なのだという。

KeralaWoman.jpgではこうした機関がどのようなセーフティネットを整備してきたのかというと、あまりにもバラエティに富んでおり、ブログの中で全てを紹介することなどとうていできない。著者はこれらを次のように評価している。漁民本人だけではなくその家族も保護の対象とし、しかも生まれてから死ぬまでのライフサイクルで起き得る様々なリスクを広くカバーしていると。だから、漁民の子息が学校に通うための奨学金の支給もあれば、漁民が現役引退して陸に上がった後を支援する老齢年金の給付も含まれるし、漁村女性が生産物を市場に売りに出かけるための移動手段の提供といったものもある。こうした様々な恩恵が認められたため、例えば「マチャボード」の加入率は州内全漁民人口の90%にも達している。これは他の職種と比べて著しく高い。

但し、幾つか課題もある。第1にメニューは揃っているものの保護的措置(protective measures)への偏りがあり、逆に漁民一人ひとりのキャパシティを高めるような促進的措置(promotional measures)、例えば漁業訓練や他職種での雇用促進を図る職業訓練等は比較的手薄だと言われている。加えて、「マチャフェド」「マチャボード」と州漁業局との間の調整も不十分だと言う。第2に、いくら給付されるメニューが充実していても適切なタイミングで給付が行なわれていないところに未だ問題があるという。第3には、「マチャボード」の福祉基金は政府拠出に加えて漁民自らの会費、水産品輸出業者等の業者からの拠出金等からなるファンドであるが、特に各種業者からの拠出金の未払いが大きく、資金不足が生じている。加えて「マチャボード」の運営管理費が非常に高いことも資金を圧迫している。

この論文を読んでみて僕自身よくわからなかったのは、1980年代半ばに「マチャフェド」や「マチャボード」が創設され、確かに加入率は上がったかもしれないが、それで漁民の生活は改善されたのかというインパクトの部分である。残念ながらその部分についてはこの論文は必ずしも詳述していない。漁民が今に至っても同じような生活困窮状態にあるとしたら、一体このセーフティネットは何だったのだろうかということにもなる。これらの制度導入の評価というものを聞いてみたいものだ。

とはいえ、ケララの沿岸漁民とその家族を対象とした社会保障制度がこれほど進んでいるというのは驚きではあった。この論文が書かれたのは2001年のことで、今はそれから既に8年経過している。これらの社会保障制度がその後どうなったのかということも含めて、何か情報があればまたご紹介してみたいと思う。
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