SSブログ

タゴールについての予習 [インド]

アジア文化研究別冊17「日印文化交流の今日的意味」
国際基督教大学学報3-A、2008年

以前国際基督教大学(ICU)のN教授から贈っていただいた学報を、西ベンガル州シャンティニケタンを訪れている今、改めて熟読している。シャンティニケタンには1913年にアジア人としては初めてのノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールが開学したヴィシュバ・バラティ大学がある。シャンティニケタンを訪ねるなら多少でもタゴールの勉強をして行こうと考え、旅のお供にICUの学報を選んだ。
DSC00043.JPG
シャンティニケタンの落ち着いた佇まい
この学報は3部構成となっており、第2部の国際シンポジウム「日印文化交流の今日的意味~グローバル化の中の真の豊かさとは~」は、2007年5月にICUで開催された標題のシンポジウムの発表者による寄稿論文集となっている。このシンポジウムにはインド赴任前の僕も午後の部だけではあるが出席させていただき、チプコ運動の提唱者であるスンデルラル・バフグナー夫妻のお話を聞かせていただいてインドの住民運動の奥深さを実感させられたのをよく覚えているが、当時はインドについて今ほどの予備知識があったわけではなく、聞き落した固有名詞がかなりあったし、深くは理解できていなかったような気がする。また、シンポジウム午前の部「ガンディーとタゴールの思想」に出られず、貴重な発表を聞けなかったという後悔が当時からあった。だから、ICUの学報でこのような形で取り上げていただき、改めて味わい直すことができて非常に助かる。

第2部の所収論文は以下の通りである。
第1章 ガンディーとタゴールの思想
 宇野彩子「ガンディーとタゴール――サッティヤーグラハの実践における友情」
 古田彦太郎「タゴールから見たガンディー――二人の真理観」
 岡本佳子「ラビンドラナート・タゴールと岡倉覚三(天心)――ナショナリズムをめぐって」
第2章 真の豊かさとは何か
 石坂晋哉「グローバル化の現代インドとガンディー主義」
 Sunderlal Bahuguna,
 “Message from Our Experiences from Chipko Movement
 and the Anti Tehri Dam Movement”
 座談会「グローバル化の中の真の豊かさとは」
 ―――葛西寬、石坂晋哉、宇野彩子、新津晃一
この中で僕が知らなかったことが幾つか述べられていてタゴールとヴィシュバ・バラティ大学について理解する上で参考になった引用がある。

例えば、古田論文はガンディーとタゴールについて以下の通り述べている。両者共に異なった主義主張があり、激しく対立することも度々あったにもかかわらず、そこには終生変わることのないお互いへの友情と尊敬が存在していた。普通の人間関係ならば、意見の大きな衝突が見られた場合、人間関係に亀裂が入り、一切の交渉が失われてしまうのが常である。しかしながら両者の場合は、一時的な意見の相違による不和が起きたとしても、それが過ぎてしまうと、また元の通りの敬愛し合う間柄となってしまう。

どんな対立だったのかはここでは詳述しない。この敬愛し合う関係というのは、タゴールが開設したヴィシュバ・バラティの存続についてタゴールがガンディーに支援を依頼するというところにも表れている。宇野論文によれば、タゴールは後半生を教育改革に捧げ、1901年にシャンティニケタンに生徒5人(1人は自分の長男)、教師5人で自然を最大の師として戸外で木の下で座って学ぶということを中心に据えた小さな学校を始めた。タゴール自身教師として子供達の教育に携わり、教科書も自分で執筆し、この学園の育成、運営に奔走したという。この学園がヴィシュバ・バラティであるが、1935年にヴィシュバ・バラティの資金が大幅に不足し存続が危ぶまれた際、タゴールはガンディーに助けを求め、ガンディーはこれに応じて支援を約束、ガンディーの要請に応えて6万ルピーの大金を寄付する人物が現れてその危機を救うということがあった。その後、自分の死期が近いと自覚した時も、タゴールは自分の後世への最大遺物としてヴィシュバ・バラティをガンディーに委ねるという趣旨の手紙を書いているという。

また、タゴールは日本を5回も訪問しており、当時としては日本との繋がりが著しく強い思想家であると言えるが、このきっかけを作ったのは明治日本の美術批評家岡倉天心とタゴールとの交流である。岡本論文によれば、岡倉が1902年に英領インドのカルカッタを訪れた目的の1つはラマクリシュナ・ミッションの指導者に会うことだったが、9ヶ月の滞在期間中、タゴール家との交流のきっかけを掴み、交流を深めていくのである。岡本によれば、1929年の来日時の講演で、タゴールは岡倉についてこのように語っているという。「彼は昼といわず夜といわず、言葉もよく通じない異国の民の間で働き続けました。このこと自体もまたわたしどもにとって、よい教育でありました。わたしどもはよく連れだって村の祭りや、町を離れてあちこち訪れたのをよく覚えています。慣れっこになってしまった眼には、見過ごされる事物の中に、この人は何という細かい敏感さで、不朽の価値を見出したことでしょう。(中略)彼は百姓たちの使う素朴な土焼の油の壺というような、全く安価なものを求めては、夢中になり、感嘆するのでした。その辺の朴訥な村人たちが、自分たちはそれとは知らずもっている美の本能が、それらの些細な物に表わされていることを、わたしどもは全く見過ごしていたのです。」(p.53)そして、異国から来た岡倉のこうした姿勢が、「わたしどもの若い世代が自分たちの国をもっとよく知り、民族の心(the national mind of the people)に隠された文化の宝(the treasure of culture)を発見するのを助けた」(同上)とタゴールは評価しているという。

なんとなく、ファシリテーションの極意を岡倉が身につけており、それによってベンガル人に意識変革・行動変革をもたらしたのではないかと思ってしまう。この逸話はどちらかというと岡倉天心の業績の方を強調したものであるが、こうした評価を当時のタゴールがしていたという点に僕は感動させられる。

最後はタゴールの話からは離れて本書所収の石坂論文についても少しだけ言及しておく。この論文はガンディー主義の思想・実践がインド国内においてもガンディー直系の弟子たちを通じて現在までインド社会に大きな影響をもたらし続け、最近は特に環境問題においてとりわけ重要な役割を果たしていることを現地調査によって具体的事例をもって示したものであるが、その中で、1950年代から70年代前半にかけて活躍したガンディー主義者を「ガンディー主義者第1世代」、1970年代後半以降に活躍するようになったガンディー主義者を「ガンディー主義者第2世代」、さらに彼らに続く若い世代を「ガンディー主義者第3世代」として整理している。

「第1世代」には、ブーダーン運動(土地寄進運動)を主導したヴィノーバ・バーヴェやJ. P. ナラヤン等が属し、「第2世代」にはチプコ運動のバフグナー夫妻、先日ライト・ライブリフッド賞を受賞したS. ジャガナータン夫妻、マハラシュトラでハンセン病患者の自立共同体の設立運営を進めてきたマグサイサイ賞受賞者バーバー・アムテー等が属する。本稿はこの第2世代のガンディー主義者の活動の実際を、バフグナー夫妻とジャガナータン夫妻を事例にして紹介したものであり、両者の活動の中心が1990年代以降環境問題に移ってきていることを強調している。(以前ジャガナータン夫妻のライト・ライブリフッド賞受賞をブログでも取り上げたので、具体的な彼らの活動経緯が日本語で描かれた論文として本稿は非常に有用だった。)

第3世代に関する言及は少ないが、この「第3世代」には、カルナタカ州で環境問題に取り組んでいるパンドゥラン・ヘーグデーやバーバー・アムテーの息子プラカシュ夫妻(今年のマグサイサイ賞受賞者)が含まれる。ヘーグデーについては、1982年に行なわれたバフグナーのカシミール・コヒマ行脚に同行した後で活動家になり、チプコ運動と同様の「アッピコ運動」をカルナタカ州で展開し、現在でもほぼ年1回のペースで州内各地での行脚を続けているという。ちょっと参加してみたいという気持ちになる。

バフグナーが採用した「行脚」や「断食」という行動の背後にあるものが何か、本稿ではよく解説されているように思う。最近僕は会社の健康管理室の看護士から、「あなたは健康ではない」という趣旨のことを言われ、心の方はともかく体の方は以前に比べれば随分とよくなったのに僕の一体どこがどのように「健康ではない」のかと怪訝に思って言い返そうかと一瞬考えて踏み止まったという経験をした。今の自分なら「行脚」や「断食」という言葉には別の意味で惹かれてしまうところもあるが、それはともかくもこれらの行為の奥は非常に深い。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 1