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『人間性未来論』 [読書日記]

人間性未来論―原型共同体で築きなおす社会

人間性未来論―原型共同体で築きなおす社会

  • 作者: 中田 豊一
  • 出版社/メーカー: 竹林館
  • 発売日: 2007/12
  • メディア: 単行本

現代人はなぜうまくコミュニケーションが取れないのか。現場の教師、福祉に携わる方々、人間関係で悩むあなたへ、国際協力事業の活動と要請によって培われたコミュニケーションのメソッドを伝える目からうろこの実践的人間関係論
おそらく、本書の紹介が今回の一時帰国時における最後のブログ・エントリーになるのではないかと思う。そして、フィナーレとなるその本とは、23日(月)にようやく読み終わった標題の1冊である。ファシリテーター養成講座でお世話になった中田豊一さん(参加型開発研究所代表、NPO法人ソムニード共同代表)の近著であり、デリーの職場で受け入れていたインターン実習生のミキさんがソムニードの和田共同代表から寄贈されていたのでその存在は知っていたが、その和田共同代表から先月末に「読んだ?」と聞かれ、「日本に帰った時に購入してきます」と答えたという経緯がある。

勿論、「ファシリテーター養成講座」の復習としても役立つ記述が含まれている。この講座について書いたブログ記事では、そもそも「ファシリテーション」とは何なのか、国際協力に関わってこられた方がなぜ「ファシリテーション」なのか、といった点をちゃんと説明していないが、こうした疑問にドンピシャで答える記述が本書にはある。
 すべての人は、自分の課題を解決するために必要な知恵を自分自身の内に持っている。その知恵は経験から学びながら作り上げるものである。したがって、その知恵を顕在化して使えるものにするためには、自分の経験を振り返る際、固定観念を離れる必要がある。私たちは、何かを思い出す際、自分に都合のいいように記憶を歪めようとする傾向を強く持っている。私たちが同じ過ちを繰り返すことが多いのは、歪められた経験から導き出した知恵に基づいて課題を解決しようとするからである。しかしながら、自分ひとりで経験を正しく振り返ることは容易でない。事実を事実として明らかに「観る」ことは簡単ではない。課題を解決するために他者の手助けが必要となるのは、そのためである。逆に言えば、援助者の最も重要な役割がそこにある。私たちは、援助者のそのような役割を「ファシリテーション」と呼び、その役割を果たす者を「ファシリテーター」と呼ぶ。その意味では、ファシリテーターは常に外部者である。
 開発援助の場合、町から来たNGOの職員は村人にとっては外部者であり、私たち外国人はそのまた外部者である。私たちの役割は村人に何かを教えることではない。そこで働く現地のNGOワーカーや政府の担当職員に対して、近くにいるからこそ見えない村人の現実の一端を垣間見させることで、「M」のコミュニケーションに気づいてもらうことが最も重要な役割である。(pp.264-265)
元々この本の問題意識は、「私たち、いわゆる先進国の人間は、近代化とともに、かつて誰でもが持っていた人間としてもっとも大切なものを失いつつあるのではないか」(p.6)というところにある。「近代化」という言葉は、「経済開発」や「グローバル化」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。経済開発は、日本や欧米の経済の仕組みを他の国々に広げていくことで成し遂げられ、今は世界中の多くの国々が市場経済の発展を目指して突き進んでいる。途上国の生活向上を側面支援するためには、我々が意図しようとすまいと、その方向への後押しをすることは避けられない(p.106)。これまでは家族とそれを取り巻く地域共同体が、生産、消費、福祉、教育、繁殖などといった人間の生活に必要不可欠なほとんどの役割を併せ持って機能するオールマイティな集団だったが、こうした共同体の機能は、経済発展のために徐々にそこから切り離されていく。先ずは生産機能が切り離され、教育機能が正規の学校教育に取って代わられ、福祉機能も行政の医療・福祉サービスに代替され、やがては消費と生殖の2つの機能のみを持った家族が最後に残る。近年、日本で「共同体の消失」「コミュニティの崩壊」が指摘されるのは、必要なくなった機能から順に消えていって、最後は人がいなくなって共同体の物理的な維持すら不可能になるからだと著者は述べている(pp.110-112)。しかも、このプロセスは、経済的な豊かさの追求に付随して起こるいわば薬の副作用のようなもので、完全に避けることは難しいという(p.124)。
 途上国の村落共同体に暮らす人々の圧倒的な情緒の安定。それに比べることの、核家族を生きる私たちの頼りなさ。近代化と産業化の進展に伴って伝統的な共同体が崩壊するとともに、私たちは、人間が人間であることの証とさえいうべき共同体への帰属意識からもたらす他者への素朴な信頼感と安定した情緒を失いつつある。20万年前の狩猟採集時代に形成された人間性の原型から、今まさに私たちは出ようとしている。原型共同体の重力圏を離れつつあるという感はいよいよ強い。
 日本では近年、家族の崩壊、経済格差に伴う人と人との分断など、これまで予想もしなかった現象に社会全体が震撼している。世代の断絶が際限なく拡大し、あらゆる価値観がなし崩し的に相対化され、とらえどころのない不安感に覆われつつある。(中略)先進工業国と呼ばれる国々では、程度の差こそあれ、同じような現象が進行中なのである。(p.282-283)
著者は、こうした変化が地球規模で本格的に起こってくるのは、もう少し先のことだというが、
人類の未来は、中国とインドというアジアの2大人口大国で進行している市場経済化がどのような結末を迎えるのかにかかっている
と述べている。
中国やインドの膨大な農村人口が、地縁と血縁を捨てて市場主義経済の仕組みを体現するときが、人類の人間観が真に変わるときであろう。しかしながら本当にそのときはくるのか。環境や資源とのバランスはどうなるのか。あるいは伝統的な村落共同体からの反撃はもう起こらないのか。分母が大きいだけに、未知数の分子も巨大で不確定要素が多い。まったく予断を許さない。(p.284)
日本が高度経済成長期以降経験してきたこと―――都市部への人口集中と近所付き合いの殆ど失われた無機的な地域社会、農村部の過疎化と相互扶助機能の喪失、生活環境の劣化といったことが、中国やインドでも起きる可能性があると著者は言う。人口1億1000万の日本が経験してきたことが、人口10億超の中国とインドで起きるというのがどういうことなのか、それを考えたら安穏とはできないと思うのは僕だけだろうか。僕の日本での充電期間中、秋葉原での通り魔事件が起き(6月8日)、JR大阪駅では女性3人刺傷事件が起きた(6月22日)。アキバの通り魔事件についてはその後もマスコミが大きく取り上げているが、隣人との繋がりが途絶えて心の安定が確保できなかったところに事件の根本の原因があるのではないかとの指摘が多い。このところ、僕はこのブログでもオリッサの少数山岳民族の暮らしクマと自然林と人との共生といったテーマを取り上げて「経済開発」と「環境」「コミュニティ」のバランスについて考えてきたが、この一時帰国中に辿り着いた結論はこんなところにある。

インドにおいて経済開発が突出することで農山漁村におけるコミュニティの役割が消滅しないのか、村落共有資源の共同管理というコミュニティの重要な役割を喪失することで、経済開発の土台自体が損なわれないか、僕たちがインドで行っている事業は、「経済」「環境」「コミュニティ」という人間社会の3大構成要素間のバランス維持に十分な注意を払っているのか、常に自問していきたい。

『人間性未来論』というタイトルはともかくとして、内容はとても示唆に富んでいた。今回の記事で紹介した以外にも、マーカーで線を引きまくった記述は多いが、全て引用して紹介していたら大変な分量になりそうなので本日はこれくらいで。
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コメント 1

僕

最近、小説ばかりでビジネス本や自己啓発本を読んでおりませんでした。
読書量もすごいですね。

ぜひぜひ参考にさせていただきます。
by (2008-06-26 23:36) 

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