小学校で英語必修とはいかがなものか [地域愛]
小学校英語、必修化を提言―中教審、高学年で週1時間
小学校段階の英語教育について検討してきた中教審外国語専門部会は27日、全国一律に小学校で英語を実施する「必修化」を提言する審議経過をまとめた。今後、親部会の教育課程部会で授業時間数などを審議するが、導入への異論はほとんどなく、正式に必修化が認められる見通し。
成績をつける教科とはせず、5、6年生は週1時間程度、共通の教育内容を設定することを提言。コミュニケーション能力の育成を重視するとした。
中教審の最終決定を受け、文科省は2006年度にも改定する小学校の学習指導要領に必修化を盛り込む。 (共同通信) - 3月27日
昨日、NHKの夜7時のニュースを見ていたら、この報道に関して、僕の恩師でもある上智大学外国語学部の吉田研作先生が、「(慎重にやらないと)英語嫌いの低年齢化を招きかねない」という趣旨の発言をされていた。まさにその通りで、意味のわからない必要性も理解できない言語に嫌々付き合わされていたら、好きになりそうなものも嫌いになり、そのうちにトラウマにもなって大きくなってからの修正が効かなくなるような事態にも陥りかねないと思う。
以前、三鷹市の小中一貫性の説明会に出たことを3月18日頃のブログに書いたことがあるが、その際の学校側からの説明を聞いていて、小学校1年生から英語の授業を導入することによって国際性豊かで生きる力を持った子供を育てるといった短絡的な考え方に対して挙手して苦言を呈したことがある。僕は仕事でも英語を使わなければならないので特に感じるのだが、「国際性」といった場合に本当に必要なのは国際的に通用する知識や考え方であって、言葉の出来不出来ではないと思う。英語が出来れば国際人かと言われればそんなことはない。要するにコミュニケーションの中味が問題なのだと思う。
それに、外国語なんてものは、本当に必要に駆られれば3ヶ月である程度は習得できる。僕や妻は南アジアの某国において、そういう状況に置かれて短期間でローカル言語を勉強した。その間の努力たるや並々ならぬものがあった。
重要なのは必要性にかられるということなのである。翻って今の子供達は、英語をどうしても使えるようにならなければいけないという必要性にどの程度駆られているのだろうか。おそらく必要とは感じていないだろう。そんな時期からわけのわからぬ言語を勉強させられたらどうなるのだろうか。
要すれば、小学校から英語教育を導入する以上、単なる授業のデリバリー以上に、必要性を感じる状況をどう作るのか、話せて良かったという満足感をどう作るのか、そうした動機付けの仕方がものすごく重要になってくると僕は思うのである。
僕自身、英語ができて本当に良かったと思った瞬間というのは、中学2年生の時に学校の修学旅行で羽田空港に行き、そこで外国人旅行者をつかまえてサインを書いてもらった時だった。話しかけるまでのドキドキ感、話が通じた時の嬉しさ、今でも忘れられない。それが英語を勉強し続ける動機付けになった。その後紆余曲折もあった。中学3年の時には、弟が柔道をやっていた関係でカリフォルニアの柔道少年団の訪日メンバーの1人を我が家にホームステイさせたことがあったが、その時は父がブロークンな英語で僕以上にコミュニケーションを図った姿を見てショックを受けた。そうした壁を一つ一つ乗り越えて、僕は英語を勉強していったのである。
英語に限らず、ありとあらゆる勉強は動機付けが全てであると思っている。本当に慎重にやらないと、吉研先生がおっしゃる如く、英語嫌いを増殖させるような危険性も孕んでいる。僕達父兄も子供たちが受ける英語教育を注意深く見守っていく必要があると思う。
まったく同感です。いまは西洋の音楽に対するあこがれみたいのもないようですし、全体的に興味ないのではないかと感じています。
日本は大人から日本語を勉強すべきですね。そして、まさに話す中身が問題ですね。さらにいえば、高尚な志をもつことが国家の品格を思います。
by 降龍十八章 (2006-03-29 00:31)