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平田靱負と玉川兄弟 [趣味]

 6月1日のNHKテレビ「その時歴史が動いた」は結構真剣に観てしまった。サブタイトル「知られざる義士伝―宝暦治水・薩摩武士の苦闘―」、1754~55年に木曽、長良、揖斐の三川の治水事業を負わされた薩摩藩の武士達の物語であるが、岐阜県美濃地方の小学校で教育を受けた者なら必ず教わる郷土の歴史の話だ。今は市町村合併で海津市という名前になってしまったが、少し前までは、海津郡平田町という町があった。この「平田」という名の由来は、宝暦治水の総奉行だった平田靱負(ゆきえ)から来ている。岐阜県人は隣の愛知県人のことはあまり好きではないが(木曽川の土手を岐阜県側よりも高くしているとかしてないとか)、鹿児島県人にはとても親近感を持っている。いずれの話も水絡みなのがおかしい。こういうご恩は何世代も何世代も語り継がれていくのである。そう考えると、いつまでも日本の戦争責任を持ち出す中国や韓国のことも何となく理解できるような気がしてしまう。

その時歴史が動いたウェブサイト               http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html#01                        薩摩義士と奥の細道                                        http://www.mirai.ne.jp/~wakita/                                              木曽三川治水偉人伝                                         http://www.kisogawa-bunko.cbr.mlit.go.jp/6/6-8.htm

一方、先週末に市立図書館に本を何冊か借りに出かけた際、ふと思いついて玉川上水のことが書かれた小学校高学年向けの本を借りることにした。なんとはなしに、自分が住んでいるこの界隈は、江戸時代ってどんなところだったのだろうかと興味が湧いたからである。玉川上水が羽村取水口から新宿・四谷大木戸までの43km区間開通したのは1652年のことだ。43kmも距離があるのに、この区間の高低差は92mくらいしかないらしいから、これもとんでもない治水技術だったことがうかがえる。因みに、僕の住んでいる地域は、1734年に開通した梶野分水によって新田開発が進んだ地域らしい。元々この地域で小学校教育を受けている妻に聞いたところ、玉川庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟というのは、やっぱり郷土の偉人として学校で教わるらしい。

これで僕も少しはこの町の歴史に詳しくなれただろうか。

玉川上水ネット                                  http://www.parkcity.ne.jp/~tama-net/                               玉川上水                                                http://www001.upp.so-net.ne.jp/takara/zyosui.htm


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和泉守兼定

はじめまして。
TBありがとうございました。
250年経った今でも交流があり、お互いに友好的な関係がある背景は
確かに、今の日本と韓国の関係性においても
学ぶべき点の多いことだと思います。
また、今後ともよろしくお願いします。
by 和泉守兼定 (2005-06-11 06:40) 

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